「弁慶のシンガードは鋼鉄製ってこと」
木立をすり抜け、下草を踏み分け、木漏れ日の差す林の中を一心に走る。
足首も膝も関節はとっくにガクガクだ。ひゅうひゅう鳴る喉の奥は変な味がするし、耳のすぐ近くで脈を打つ音が聞こえる。心臓はまるで身体中を気ままに跳ね回っているみたい。そんなことを考える暇さえ惜しんで全力で駆け続ける。
「うわっ」
「しんべヱっ」
木の根に足元をすくわれて宙を泳いだしんベヱを、乱太郎ときり丸が間一髪で両側から掴んで引き起こす。
ほんの僅かに足が緩んだその一瞬に、ずっと後ろに見えていた馬の姿がぐんと近づいた。
面頬を首に提げた騎馬武者の顔は、勝ち誇った笑みに歪んでいる。ほとんど踵を踏みつけそうな距離に迫っているのに、わざと付かず離れずの速歩で馬を歩ませて、一塊になってもつれ合いながらも足を止めない3人をじわじわと追い詰めていく。
奥へ行くほど細くなる道なき道を、木々を避けながら走り抜ける。
きり丸が落ち葉に滑ってたたらを踏む。しんベエがその背中を発止と受け止め、前へ押し出す。
「ありがとな」
口早なお礼に、しんべヱはニコッと微笑み返して応える。喋る余裕はさすがに無い。
「この先、もうちょっとで……」
先頭の乱太郎が言いかけた瞬間、折り重なるようにしてみっしり生えている灌木の群れに遮られ、とうとう進路を断ち切られる。
激突寸前で足を止め右往左往する子供たちを見て、騎馬武者はしきりに首を振る馬の手綱を引いて立ち止まらせると、顎をのけ反らせて高笑いした。
「忍術学園がこの戦に噛んでいると聞いて罠を張った甲斐があったわ。要らぬ感情を捨てられぬ甘っちょろい性根では、お前たちは到底、良い忍びにはなれんな。さあ、洗いざらい情報を吐いて貰おうか」
正面は行き止まり、左右は藪の生い茂る緩い斜面、背後には敵。
肩で息をしながら、しんべヱがきり丸を見る。額の汗を払い落としてきり丸は乱太郎を窺う。きっと口元を結んだ乱太郎は、真っ直ぐに正面を睨んでいる。
学園長の友達のお殿さまに頼まれて、敵と睨み合う付城から本城へ書状を運ぶお使いの途中、道端にうずくまる行商人に行き会った。
合戦場の近くで外れ矢に当たってしまった。どうか助けてと哀れっぽく頼まれ、乱太郎が応急手当をした途端に行商人のおじさんは悪い顔になって、ピーイッと指笛を吹き鳴らした。それに呼応して物陰から現れた騎馬小隊に追いかけられて、林の中へ飛び込んだのだ。
忍者の三禁は酒・色・欲。優しさは忍者にとって必ずしも美徳ではないって、いろいろな人に何回も叱られた。確かに、行き倒れを助けたせいで今まで何度もひどい目に遭っている、けど、でも。
長く息を吐いてやっと呼吸を整えたきり丸が、ぼそっと言った。
「騎乗したまま木の多い場所に入っちゃ、パワーがあっても小回りの利かない機動力って裏目に出るんだぜ」
「なに? 小僧、今なんと言った」
騎馬武者が被る兜の、丸い日輪の前立が、馬上で身を乗り出したその瞬間に弾け飛んだ。
連続する轟音と共に、硝煙のにおいが辺りに立ちこめる。足元めがけて次々に撃ち込まれる鉛弾と、音に怯えた馬が、前脚を振り上げて竿立ちになる。はずみで転げ落ちそうになった騎馬武者は声を荒らげた。
「こら、落ち着かんか! この駄馬め!」
「主人がカスだと馬が可哀想」
理不尽に怒られる馬に同情するようにしんベヱが呟く。
何か言ったかと目を剥いた騎馬武者の頭上を、横合いの藪から飛び出した馬が、優雅な弧を描いて跳躍した。
呆気に取られる騎馬武者の前で見事に着地させた小柄な乗り手は、そのまま巧みに馬を操り、まるで整備された道を行くようにでこぼこの悪路をあっという間に付城の方へ駆け去って行く。斥候発見、要追撃の急報を伝えるためと察した騎馬武者は、慌てて命令を発した。
「小隊半数っ、急いであの馬を追え、小隊――おい、返事をせぬか! って、あれ?」
命令を復唱するどころか完全に無反応な背後の部下たちを、憤怒の表情で振り返って、騎馬武者は再び目を剥いた。
誰もいない。
騎乗の部下は勿論、供回りの一人も、口取りさえもいない。
「今日のブービートラップは作法委員会と生物委員会でそれぞれアドバイスを貰って作ったから、特別えげつないんだって」
目に見えてうろたえだした騎馬武者を観察しつつ乱太郎が言うと、しんべヱはどんな惨状を想像したのか、いやーんと恐ろしげに身をよじった。
きょろきょろと辺りを見回したきり丸が感心した声を出す。
「すげぇな。金吾の描いた地図、木の位置までぴったり正確だ」
「体育委員会ってこんな所までランニングに来てるんだ……あれって実は地形調査だったりして」
「いやー、委員長の趣味だろ」
「庄左ヱ門もすごいよ。地図から予想した騎馬隊のルートが大当たりだもん」
「このへんに知り合いの炭焼きさんがいるんだって」
喋っている間にも、ぱぱぱぱん、ぱん、ぱあん、と炸裂音が立て続けに後方から聞こえる。予定外の単騎駆けに動揺している騎馬武者はそれを耳にしていよいよ浮き足立つ。百雷筒に火薬を入れ過ぎなんじゃないの、持って来たのは伊助だけど用意したのは土井先生だぜ、だからだよ、と無遠慮に言い合う声を聞こうともしない。
雲を掴むような手付きで手綱を引き寄せ、逃げ出そうと馬首を返して、立ち竦んだ。
通って来た道一面、いつの間にかぬらぬらと光る網が縦横無尽に張り巡らされている。
「なんだこれ……何かのまじないか、それとも呪いか、人外化生の仕業か……」
得体の知れない気味の悪さに足を踏み出せず、騎馬武者は青くなったり白くなったりしながら呻いた。逃げ遅れていたナメクジがその隙にそそくさと藪の中へ隠れる。
乱太郎はすっと背中を伸ばし、顎を引くと、しっかりした声で呼びかけた。
「罠の罠だよ、おじさん」
騎馬武者がびくっと肩を揺らす。
「そして私たちは囮の囮だ。困っている人を放っておけないのは忍者としての弱点だって分かってる。分かってるから、それを利用される可能性だって、ちゃんと考えているんだ」
少人数の騎馬隊が付城の周辺をうろついているという情報は、事前に掴んでいた。
林の奥に通じる道は、進むにつれてだんだん狭くなって、最後は灌木で行き止まりになることは調べてあった。
それで作戦は決まった。
囮に敢えて引っ掛かることで騎馬隊に自分たちを捕捉させて、逃げる振りをしつつ機動力の落ちる隘路(あいろ)へ誘い込み、叩く。
「弱点を狙われることを逆に利用したのか。だが逃げ損なえば、囮役のお前たちは、絶望あるのみではないか」
絶句した騎馬武者の首から、提げていた面頬がごとんと落ちる。その言葉に乱太郎はかぶりを振る。
「要らない感情を捨てられないのは甘いとおじさんは言ったけど、まだ半人前にもなれない忍者のたまごでも、とうに捨てた心もあるのさ。友達や先輩や先生たちがいるから、――"もう駄目だ"って、諦める心をね!」
斜面の上に、木々の間に、灌木の中に、今まさに集まりつつあるのは、希望と信頼をまとった頼もしくも心強い仲間の気配だ。
側背をすっかり取り囲まれ色を失う騎馬武者の前へ、乱太郎は一歩踏み出し、朗々と声を張る。
「忍術学園、一年は組、いざ! 参る!」
『応!』
四方八方から一斉に返る声が、高らかに蒼天へ駆け昇った。
蓋を外した鍋から、いい香りの湯気がふわっと漂い出る。
汁の味をみた母ちゃんは満足気に頷くと、正月用のお椀を載せた盆を引き寄せた。
「父ちゃん、お餅、いくつにします」
尋ねたが、返事がない。
何をしているのかと思えば、父ちゃんは部屋の隅でまだ寝ている乱太郎をじっと見ている。もう一度呼ばれてやっと振り返ると、面白そうに息子の顔を指さして、声をひそめた。
「寝ながら笑っとるぞ。いい初夢を見てるみたいだなぁ」
「そうですか。でも、お餅が溶けちゃうわ、そろそろ起こしてやって下さいな」
餅をすくい上げる頃合いを計って鍋の様子から目を離さずに母ちゃんが急かす。
うん、と生返事をした父ちゃんは、それでもなんとなく手を付けかねて、布団に埋もれる乱太郎の寝顔を眺め続けている。