「願わくば」


 岩場の上に、さっきまでは見えなかった一際明るい光が、ちろちろ揺らめいている。
 ざぶりと波間を割って海面に顔を出すと、途端、冷たい空気が針のように頬を刺した。今の気候、一度覚悟を決めて水に入ってしまいさえすれば、陸の上より海中の方がずっと暖かだ。
「おい、いつまで浸かってる」
 ぶっきらぼうな声が岸から飛んで来た。暗闇を透かし目を細めてよく見ると、松明を片手に掲げた間切が仏頂面をこちらに向けている。水軍館周辺の巡視の途中だ。
 もうそんな時間かと夜空を見れば、右側にうっすらと陰を抱く月は、中天から西に傾き始めている。
 居待ち月というやつだ。満月から少し欠けているけれど、それでも雲のない空、白々と豊かな光を海に投げかけている。
 上がって来いと手振りで呼ばれ、重は海面に散る月影を分けて泳ぎ出した。
 岸に辿り着くと、間切が腰に当てていた左手を伸ばして上がるのを手伝ってくれたが、そうしながら「そのうち鱗が生えるぜ」と吐き捨てた。

 水軍館は海が見渡せる高台の突端にあり、そこまではゆるゆるとした上り坂になっていて、2人は特に会話もないままそこを上っていく。
 重は歩きながらぐしゃぐしゃと手櫛で梳いて、濡れた髪を風に薙がせている。乾いた着物に着替えているとは言え、あと一息で冬の底が見えるこの時期、ぺらぺらの小袖一枚の姿はいかにも寒々しい。
「物好きな野郎だ」
 ぶつりと間切が言うと、重は素直にそうですねと応じた。
「お頭に許可は取ってあるんだろうな」
 勝手歩キ在間敷事。水軍掟の「いろは」の「い」だ。
「勿論です」
「ならいいけどよ。それにしても、――物好きな野郎だ」
 重ねて言うと、重は、今度は声を立てて笑った。いっそ小面憎いほど屈託のない態度に間切は顔をしかめる。もっともあまり変化はないのだが。
「シゲ」
「はい」
「お前、なんで泳ぐ」
「水練ですから」
 間髪入れない。
「そうじゃねえ。この真冬の、しかも夜の夜中にだ、なんだって海に入る」
「うーん……海に呼ばれて?」
「ウミアマにでも魅入られたってか」
 この海河童。物の怪に物の怪が取っ憑いてたまるか。
 お前は生まれた時からそんな面なんだろうとからかわれる顔に、間切はまた不機嫌そうな色を浮かべる。
「冗談ですよ。あの――間切兄は、水の中から月を見上げたこと、ありますか」
「水の中で月だぁ?」
 間切が素っ頓狂な声で復唱すると、重は照れ臭そうに頷いた。
「それが急にどうしても見たくなって……あれ、そうすると、海に呼ばれたってのも案外嘘じゃないな」
「いつからそんな風流人になった」
「さあ……でも、きれいなんですよ。こう、月の光が波にゆらゆらして広がって見えて、自分の周りに降ってくるような感じで、まるで極楽にいるみたいに」
「見呆けてりゃそのまま現地に直行だ。苦労が無くていいじゃねえか」
「水練が溺れ死んじまったら、兵庫水軍の沽券に関わりますよ。戦の中でならまだしも」
 重が生真面目に答えると、間切は眉間のしわを深くして、顔にまだ傷の一つもない若い水練を睨んだ。その視線を受けて重は困り笑いを浮かべ、取り成すように言う。
「間切兄は、極楽に行きたいですか」
 間切はつと片方の眉を持ち上げ、一言の元にばっさりと答えた。
「考えた事もねえ」
「一度も?」
「おう」
 神仏の類を笑い飛ばす気はないが、鎌倉以来流行っている南無阿弥陀仏とやらで死んだ後の幸福を約束してもらっても、今食えなけりゃ腹は減る。それなら現世でしっかり今日の飯を確保した方が、とりあえずその日をありがたく生きられるじゃねえか。

 それに、この稼業を選んだ以上、極楽往生なんざはなから望まねえ。

 ある種達観にも似たその覚悟を持って、間切は水軍の水夫として櫓を握っている。戦う度に増える体の傷はその証だ。開戦を告げる鉦の音を聞き、飛び交う石火矢の煙を嗅いで気を沸き立たせこそすれ、それに微かな怯えを覚えていた己はもういない。
 一方、このところ平和な状態が続き、重はまだ小競り合いの域を超える戦闘に参加したことがない。
 いくつも歳の違わない2人をはっきりと隔てる大きな違いがそれだと、間切は思っている。
 重が穏やかそうな顔の下に盛んな血気を秘めているのは知っているが、ひとたび事が起きたその時、命を投げ出す肚は決めてあるのか。幼さの残る横顔を見詰めていると、ふとそんな疑念がよぎる。
 水練の者はむしろ工作要員で、滅多なことでは戦闘の矢面に立たない。それでも水軍の一員であることに変わりはなく、必要とあれば得物を手にすることも、人を手にかけることもある。
 戦い手である水夫はそれこそが役目だ。そして、俺はそれを既に、した。
 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。そう言ったありがたい坊さんもいたらしいが、俺はやっぱり極楽に行くことはできねえ。だから、望まない。望めない。

「お前は泳いでりゃいいんだよ」
 思わず口走ると、重はきょとんと間切を見た。
 それで自分が声に出していたのに気づき、残りはぐうと飲み込む。――まだお前には極楽へ行く允許状がある。それなら、それを失くさねえように、ずっと好きなように泳いでいろ。俺はとっくに失くしちまったけど、お前は大事にとっとけ。
 泳ぐことと同じくらい海が好きで、だから水軍に入ったんだろう。だが、今はまだ好きの闇だ。海中の月見みたいにきれいな面――少なくとも汚れていない面しか、まだ、見ていない。いつか必ず、堅気のままでいれば目にすることのなかったものを見、しないで済んだことをしてしまう。
 そんな日が来なければいいのに。
 虚しいと分かっていても、そう思う。
 思ってしまうのが、虚しい。

「泳ぎますよ。俺は水練だし。なんかへンだな、間切兄、どうしたんです」
 重が不思議そうに言って、顔を覗き込んでくる。それを避けるように松明を道に擦り付けて消しながら、間切は返事をしなかった。

 水軍館はもうすぐそこだ。