「標的はあなた」


 何か、おかしなことになっているようだ。
 図書室の本を借りっ放しの生徒に返却催促状を渡すため、学園の中を歩き回っている雷蔵は、その先々で目にした奇妙な光景を思い返しつつ足早に歩を進めている。

 焔硝蔵の前では、怒る三郎次と訝る伊助を土井がしきりになだめていた。
 漏れ聞こえた話では、どうやら先に来ていたはずの火薬委員会の上級生二人が見当たらず、それどころか焔硝蔵の扉が開け放したままになっていたらしい。
 よろず慎重で注意深い兵助や、決して粗忽ではないタカ丸にしては、確かに迂闊な行動だ。中には大量の火薬があるのにあまりに不用心だと三郎次が声高に咎めるのを、もっともだと思いつつ雷蔵は通り過ぎた。
「幸い何事もなかったんだ。今日は、今日だけは、勘弁してやってくれ」
 まるで下級生たちに懇願するような口調で言う土井の声が、何となく耳に残った。

 その次には用具倉庫の前で右往左往する下級生たちを見た。
 喜三太に催促状を渡すついでに、何かあったのかと声を掛けると、何と委員長が消えたという。
 用具委員が全員集合し荷車の修理に取りかかってすぐ、用意し忘れた道具がいくつかあることに気が付いた。そこで下級生たちが倉庫へ探しに入って間もなく、表から留三郎の短い罵声が一度聞こえた。
 文次郎か誰かが通りかかったのだろうと思って気にも留めず、必要なものを取って出てきたら留三郎の姿がなく、きちんと揃えて置いてあった道具や資材は蹴散らしたように辺りに転がっていた。
「まるで、熊かなんかに出くわして慌てて逃げ出したみたいな」
 いくら広いとはいえ学園の中にさすがに熊はいませんよねと首をひねる作兵衛と一緒に、雷蔵もひとしきり首をひねった。

「尋常ならざることが起きている、のかな」
 珍しく今日の日は雲ひとつない晴天で、年に一度の逢瀬は滞りなく済みそうであるのに。
 青空を見上げ、天上人の睦まじい情景を想像してふと微笑んだ雷蔵は、前に戻した視線の先の光景に足を止めた。
 ひと抱え以上もあるこんもりと葉の茂った灌木の手前に、それと同じくらいの大きさの、亀が伏せたような形をした庭石が据えてある。その石の上に、日干し中の濡れ雑巾のようになって張り付いている青い制服がいる。
 それは大いにありがたくないことに、自分と同じ姿形をしていた。
「私の顔で奇行をしないでほしいな」
 歩み寄った雷蔵がため息混じりに苦情を言うと、うつ伏せになっていた三郎の頭がずるずると動いた。首をもたげて顔を上げようとはせず、鼻や頬を石でこすりながらようやく顎の先を支点に定めると、傍らに立っている雷蔵にどんよりした目を向ける。
「雷蔵か……、無事か」
「君が無事か。何やってんだ」
「私のことはいい、……私に構わず行け」
「いや、言われなくても行くけど」
 言いながらやや身を引き、雷蔵はうわ言のような台詞を吐いた三郎を観察した。
 見たところ怪我はしていない。どこかを痛がっている様子もない。ただ、何があったのか、立ち上がれないほど疲れきっている。まるで散々に使い古してあちこち擦り切れたボロ雑巾だ。
「夕食の時間までには帰って来いよ?」
 立ち去り際にそう声を掛けると、再び亀の背中に沈んだ三郎は「……うさぎとかめ」と呟き、どこか箍(たが)の外れた調子で忍び笑いをした。

 少し進んでから、何気なく繰っていた催促状の中に三郎のものがあったことに気が付いた。
 戻る? いや、あとで渡せばいいか。もういなくなっているかもしれないし、夕食か消灯の前にでも――
「そこの! しゃがめぇ!」
「へっ?」
 不意打ちの大声に思わず従うと、彼方に点のように見えていた人影が、駆けて来た勢いのままに雷蔵の頭上を飛び越えた。
「あ、七松先輩」
「おうっ。不破かっ」
 一瞬見えた横顔はいつもと変わらず楽しげだ。しかし、いつになくそこに強い緊張が混ざっている。
 着地した小平太はその場で一、二回足踏みしたが、やがて何かを振り切るようにそのまま走り去った。背中で踊る長い髪にまぎれて白いものがちらちらと見える。
「何だ、今の」
 呆気にとられて小平太の去った方向を眺めていると、今度は背中に何かがドンとぶつかった。慌てて振り返り、ぺこりと頭を下げる。
「タカ丸さん。すみません、ぼうっとして」
「――ごめんね! ごめんなさい!」
 目を見開いて雷蔵の顔をじっと見詰めていたタカ丸は、強く結んだへの字口がほどけると同時に、雷蔵の言葉尻にかぶせて大声で謝った。面食らって絶句した雷蔵に両手を合わせて平身低頭し、さっと踵を返して止める隙もなく駆け出す。
「……何をしているんだ? みんな、一体、何なんだ」
 みるみる小さくなっていくタカ丸の後ろ姿を呆然と目で追いつつ、誰にともなく問いかけた刹那、総身に矢ぶすまを浴びたような悪寒に襲われた。
 はっと振り返ると、いつの間にそこへ来たのか、目の前に十人ばかりのくの一がいる。

 どこか近くで、木板を槌で乱打する警告音が聞こえる。
 強いて気を鎮めその出どころを耳で探すと、かんかんと途切れることなく続く切迫した音は、自分の胸の内で鳴り響いていた。
「どうしたんだい。こんなに集まって」
 居並ぶ女の子たちから目を離さず、極力気軽な口調をつくって雷蔵が尋ねる。緩やかな二列横隊の中程から誰かが答えた。
「今日は七夕です」
「うん? うん、そうだね」
「そして乞巧奠(きこうでん)です」
「……そうでもあるね」
 五色の糸を金銀の針七本に通すとか、星明かりを頼りに糸を通すとか、宮中や上流貴族の家庭の子女が文月七日に裁縫の上達を願ってそんな儀式をすると聞いたことがある。布を織るのが仕事である棚機津女(たなばたつめ)の織姫さまに針仕事の加護を求めるのは、似ているようでちょっとずれているんじゃないかと思ったっけ、とぼんやり考えていると、別の声が言った。
「だから私たちも儀礼に則って、針の技芸を奉納しているところです」
「……。君たちが持っているものが何か、改めて聞いていいかな」

「吹き針です」「含み針です」「テキ腿飛針です」「針型手裏剣です」「鋒鍼です」「員利鍼です」
「……」

 針だ。
 確かに針だ。
 しかし織姫さまの守備範囲をはるかに超えた特大ファールもいいところだ。それをあたしにどうしろと、とかささぎの橋の上で呆然としている古の姫の姿が見えるようだ。
「私が知っている乞巧奠の儀式とは随分違うな」
 その針じゃなくて縫い針だろ! と、まともに指摘して聞き入れられると期待するほど雷蔵もお人好しではない。くの一たちはまるで風に揺れる笹の葉のように、さらさらと涼し気な笑い声を上げた。
「忍者の女子(おなご)にはこちらの"針"のほうが相応しいでしょう?」
 案の定すぎる回答に、そうだねとも言いかねて、雷蔵は無意識にそろりと右足を引く。
「学園内を無作為に移動する標的に針を当てて回るのが、忍術学園くの一流の乞巧奠です。ええ、学園長先生のご発案で」
「標的、って」
「背中に的紙を貼られた上級生七人です」
「下級生はすぐ捕捉できちゃうけど、上級生ならあの手この手で逃げ回ってくださるからおもしろ……、私たちにとっても良い訓練になります」
「今、面白いって言った?」
 じわっと背中に汗が浮く。身の内から噴き出たはずの汗は妙に冷たく肌を滑り、雷蔵は思わず背中に手を回して上衣を引っ張った。
 気後れした笑みを浮かべたまま、雷蔵の頬が凍った。
「それに、七人の内訳は随時変動します。的紙を他の人に付け替えれば、標的はお役御免になりますので」
 指先にかさかさと軽い感触を掴んだ雷蔵が瞠目するのを見届け、ひらり、ふわり、優雅にすら見える動作で得物を構え直したくの一たちが、可愛らしく声を揃えた。
「ですから、不破先輩、」
 お覚悟召されませ。

 次の瞬間、脱兎は身を翻した。