「望月夜話草紙」


 明るく冴えた月の光に誘われて地中の巣から這い出し、手に手に弁当や敷物を持って、楽しそうに月見へ出掛けてゆくモグラの大家族。
 校舎の角を曲がった瞬間目に入った光景のそのまた向こうに、もこもこ動く小さな後ろ姿の幻影を見た。

「そんなアホな」
 思わず呟いた声が思った以上に響き、滝夜叉丸はハッとして口を押さえた。
 長屋の方角から夕食や入浴のざわめきが遠く聞こえてくるばかりで、周囲に人の気配はない。例え誰かがいたとしても、頭の中の和やかな空想を覗き見られるはずもないのだが、委員会活動の前に四郎兵衛と金吾が開いていた物語草紙のせいでこんな自分らしくもない子供っぽい想像をしてしまったのだと、心の中で誰にともなく強く主張した。あいつらときたらほとんど一行ごとに「この漢字は何と読むんですか」と尋ねてくるんだから、それだけで物語の大筋が掴めてさらに記憶までしてしまう、己の英明な頭脳が恨めしい。
 校舎の裏一面、位置も大きさもばらばらに、あちらこちらへぽっかりと黒い口を開けた穴また穴。その脇には掘り出された土の山また山。石ころや木の根も所々に混じっている。白々した月明かりにくっきりと照らし出されるそれらは無論、モグラが集団で月光浴に繰り出した跡ではない。
 滝夜叉丸は両手を口の横に添え、声を大きくして、その辺りに潜っているはずの級友を呼んだ。
「喜八郎」
 どこからか微かに聞こえていた、ざくざくと土を掻く音が止まる。
「喜八郎」
 もう一度呼ぶ。
 右手の奥の方の穴から、ぴょこんと何かが突き出した。土で汚れた踏鋤の金具が鈍く光る。
 軽く溜め息を吐いた滝夜叉丸は慎重に踏鋤に近寄ると、足元の暗い穴を見下ろした。
「やっほー」
 穴のふちから顔を覗かせる滝夜叉丸を見上げたついでに月光も目に入ったのか、喜八郎は眩しそうに瞬きをした。鼻先の泥を袖でぐいと拭うが、袖も泥だらけだったと見えて、逆に顔の下半分がまだらに汚れる。
 滝夜叉丸はもう一度溜め息を吐いた。ふちに屈み踏鋤の先を掴んでくいくいと引く。
「やっほー、じゃないだろう。早く上がって来い。夕食が冷めてしまうぞ」
「うーん」
 肩に担ぎ上げた踏鋤を引っ張られるまま喜八郎は返事とも独り言ともとれる声を出したが、動く気配はない。地上と地中でしばし奇妙なにらめっこをする。
「まさか、掘り過ぎて外に出られないと言うんじゃないだろうな」
 身長よりも深い穴の中を見た滝夜叉丸がふと思い当たって尋ねると、喜八郎はいかにも心外そうな顔をした。
「そんなに間抜けじゃない」
「それなら、ほら」
 穴の中へ向かって手を突き出す。が、ぶるぶると首を振られて、滝夜叉丸は鼻白んだ。
「喜八郎」
「まだ掘る。いいよ、行って」
 土の壁を手のひらで撫でていた喜八郎はそう言ってフイと足元に目を落とし、猫のように爪を立てて壁を削った。頑なな感じでうつむいた後頭部の辺りが、常に無くどこかピリピリしている。
 滝夜叉丸はちょっと顔を上げると、首を伸ばして周囲を見回した。

 喜八郎がそこら中を掘り散らかす――堀り散らかす、という言いざまも考えてみれば凄まじい――場合、気の向くまま出鱈目に掘っているように見えて、あれで統一性と言うか規則性と言うか何かしらの平仄は合わせてあるらしく、一見乱雑なタコ壺の群れは不思議と整然としている。それを美しいと表現する感性は滝夜叉丸には無いが、穴掘り小僧なりの穴掘りに対する美学のようなものは、なんとなく感じる。
 そう言えば喜八郎を見かけないと思ったらどこかの地面が穴だらけになっていた、というのは珍しくもない。何かの拍子にそれを見掛けても、ああいつも通りだ、日常の風景だと思うだけで、大して気にも留まらない。体育委員長謹製の塹壕と併せて、埋め戻した端からたちまち掘り返される用具委員会の悲鳴と怒号に見ざる聞かざるを決め込めば、だが。
 翻って今、目の前に広がる光景は、うっかり裏返しに着てしまった着慣れた着物のように、馴染んでいるはずなのにどうも心地が悪い。

 大小無数のタコ壺から足元の穴へ目を移し、頭巾や髪に土くれをくっつけたまま下を向いている頭に声を掛ける。
「いずれ温泉を掘り当てるぞ」
「そしたら入らせてあげる」
 気のない声で景気のいい事を言い返して、喜八郎は踏鋤を構え直そうとした。が、滝夜叉丸が掴んだままでいるのに気が付いて、不満そうな顔で上を向く。
「行っていいってば」
「今日はもう止めにしろ」
「離さないと、落っことすよ」
「やれるものならやってみろ」
 喜八郎が踏み鋤を強く揺すると、穴の中へ落ちかかる滝夜叉丸の影も一緒に大きくぐらぐらした。それでも手を離さない滝夜叉丸に、喜八郎は露骨に苛ついた表情をする。
「邪魔をするなよ」
「邪魔ではない。忠告だ。少しは地面を休ませてやらないと、これ以上削られては堪らんと、逃げ出してしまうぞ」
 滝夜叉丸が奇妙なことをきっぱり言い切ると、喜八郎は珍しく面食らったような顔をした。
「逃げるって、何それ。この土地が自分で立って歩くわけ」
「そうだ。土地神様とか土に憑く妖怪の類がここにいないとは限らんだろう。神なりあやかしなりが休息している間に、お前は美味い夕食を食べて風呂でさっぱりして一晩よく眠って調子を万全にして、彼奴が油断している機先を制すればいい」
 我ながら無理のある言い様だと自覚しながら言いつのるうち、滝夜叉丸はついまた奇妙な想像をした。

 夜の間に学園の敷地一帯がよっこらしょと起き上がり、そこから人間のような手と足が生えて、のっしのっしと重たげに体を揺すりどこかへ歩いて行く。今まで水平だったものが急に縦になったから、その上にいた皆が大慌てだ。鉤縄を投げる気の利いた者も中にはいるけれど、どんなに腕が良くたって、天の月までは届かない。木や石や建物、学園の生徒も教職員も動物も虫も、傾いた地面をころころと滑って転がって――

「あ、――落っこちた」
 呟いた喜八郎が唐突に踏鋤の引っ張り合いをやめたので、滝夜叉丸はわっと声を上げて尻餅をついた。眉を吊り上げ、穴から這い出ようとする級友に向かって文句を言いかけたが、思い直して口をつぐむ。
 咄嗟の思い付きとは言え、なんと馬鹿馬鹿しい事を口走ったものか。この私が。ああまったく、あの物語草紙のせいだ!
 三度目の溜め息を深く吐き、喜八郎の腕を掴んですぽんと穴から引っこ抜く。
「おおー。楽ちんでいいな、今の」
「タコ釣りのタコじゃあるまいし。踏子は私が部屋に戻しておくから、手足と顔を洗って来い」
「今日の夕食当番、誰だっけ」
「私」
 そう答え、滝夜叉丸はにわかに片手を腰に当て背中を伸ばし胸を反らした。
「教科実技とも成績学年一位でサラサラストレートヘアランキング第二位の学園のアイドル、歌舞音曲はもちろん筆をとっては水茎の跡も麗しい、何をやらせても超一流の私の手になる料理だ。冷めたり乾いたりしてから食べてはあまりに勿体ない」
「お腹空いちゃった。芋の煮っころがし、食べたい」
 髪や服についた土をぱたぱたと叩き落としていた喜八郎が特に感銘を受けた様子もなく訴えると、滝夜叉丸はあっさり決めの姿勢を解いて、だからお前を探しに来たんだと面倒臭そうに手を振った。
「それも作ってあるから、食べ尽くされる前にさっさと行け」
「はーい」
 軽く応じて歩き出しながら滝夜叉丸に踏鋤を渡そうとして、喜八郎の手がぴたりと止まった。そのまま視線が上を向く。
 今度は何だと滝夜叉丸が身構えると、喜八郎は空を指さした。
「ねえ、あれ見なよ。満月がきれいだよ」

 指の先で、さっきより少し位置を変えた満月が、雲の晴れた夜空を背景に静かに輝いている。

 四度目の溜め息を呑み込んで頭上を仰ぎ、差し掛ける清かな光に、滝夜叉丸は目を細くした。
「……あー。そうだな、綺麗だな」
 あたらよの月と花とをおなじくは、と、いつか読んだ古の貴人の歌が頭をよぎる。屋敷のきざはしでゆったりと月を眺めるその貴人の姿さえ目に浮かぶ。知的かつ風雅な連想。そう、これでこそ本来の私だ。モグラの遠足とか妖怪土地左ヱ門なんて子供じみた空想ではなく、深い教養に裏打ちされた確かな知識がおのずと溢れ出す、これこそが。
「月のうさぎが搗いた餅って、おいしいと思う?」
 自我回復に浸る滝夜叉丸をよそに、踏鋤でトントンと餅搗きの真似をしながら喜八郎が言う。
 途端に、ふわふわの小さな前足で器用に餅を丸め打ち粉を敷いた台の上へ並べていくうさぎの図が、滝夜叉丸の頭にぱっと浮かんだ。

 薄桃色の鼻と長い耳を時々ひくひくさせながら、次々と、次々と、次々と、時々ちょこっとつまみ食いをして。
 どんどん増える白くて丸い餅が高貴な人をたちまち埋め尽くす。短冊と筆を放り出した高貴な人は、直衣の袖にたすきを掛け、張り切ってうさぎを手伝い始める。餅を千切って丸めて、手や顔を打ち粉で真っ白にして、うさぎと並んで楽しそうに、

 何をやってるんですか貴方まで。

「さあ、それは分からんが、一度食べてみたいとは思う」
 諦めて答えた拍子に、呑み下しそこなった溜め息が小さく零れた。