「胸いっぱいの」
滝夜叉丸が途方に暮れた顔をして、両手と膝を地面に突いて屈み込んでいる。
その向かい側で膝を折って同じくしゃがんでいる三之助は、珍しく縄でくくられていないものの、いつになくしかつめらしい表情をしている。
滝夜叉丸の右には金吾、三之助の右には四郎兵衛が、きちんと膝に手をおいて神妙な様子でちょこんと座っている。
ちょうど十字になる位置に座を占めた四人が額を寄せ合う真ん中の地面には、差し渡し三尺ほどのまるい穴がある。うつむいた頭越しに覗き込んでみるが、一体どれくらいの深さがあるのか、日の光も届かない下方は重い暗闇がどんよりわだかまって全く底が見えない。
「ひゃあっ」
頭上に差し掛けた影に気付いて顔を上げた金吾が、いつの間にか四郎兵衛の後ろに黙念と立っていた長次を見て高い声を上げた。それに釣られてはっと振り向き振り仰いだ面々がそれぞれにびっくりし終えたのを確かめ、一呼吸おいてから、長次はもそりと尋ねた。
「何かあったのか」
小平太の姿が見えないが今は委員会活動中ではないのかと、失礼な反応をしたと恐縮している体育委員たちを気にするでもなく見回すと、なぜか滝夜叉丸と三之助が互いに鋭い目配せを交わした。はてと思う暇もなく、視線で争う先輩たちをよそに四郎兵衛と金吾はわっと長次に駆け寄り、袖を掴んで揺すりながら代わるがわる訴える。
「委員長はこの穴の中にいらっしゃいます」
「ついて来てはいけないとおっしゃって、おひとりで」
「どんどん掘り進んで行ってしまって」
「地上からではもう姿が見えません」
「呼んでも応えてくれません」
「中在家先輩、どうしましょう」
言われてみればざくざくと土を掻く音が微かに聞こえる。しかし何としたことか、この子たちは今にも泣きそうだ――と自分を仰ぐ小さな顔を見て考えているその間に、金吾の目元が本当にじわっと濡れてきて、長次は慌てた。傍目にはそう見えなくても慌てた。
「泣くことはない。小平太なら五尋や十尋、潜ったところで心配ない」
「そうじゃないんです。僕のせいなんです」
「そうではないぞ、金吾」
強く首を振って慰めの言葉を拒絶した金吾を、ぱっと振り返った滝夜叉丸が大声で更に否定した。黙ってもの問いたげな目を向けた長次に少々怯んだ様子ながら、膝の前の深い穴を片手で指して、これも珍しく言いづらそうに口を開く。
「七松先輩はあいがない、と話していたのを聞かれたようなのです」
「あい?」
「はい」
沈痛がにじむ口調で言う滝夜叉丸の言葉を思わず反復すると、袖にすがっている四郎兵衛が鼻声でこっくり頷いた。
聞き違いではなかったか。だが、「あい」とは?
真っ先に思い付いたのは染料の藍だ。小平太は染め物などしないから確かに「藍がない」が、わざわざ言いたてるようなことでもない。あい、合、相、埃? それとも、愛か。
思った途端、なるほどと納得してしまった。
終わりのない塹壕掘り、果てのない持久走、マッチポイントのないバレーボール、木登り山登り断崖登りとその復路の下りもしくは滑降あるいは滑落、遠泳競泳潜水高飛び込み、数え上げればきりがない体力勝負の数々に日々有無を言わせず付き合わせ、意見も抗議も愁訴も「細かいことは気にするな」で一蹴する小平太に、後輩たちに対する愛情があるかと言うと確かに「ある」。自分が楽しいことは他の人にとっても楽しいはずだ、ならば一緒に(大いに!)楽しもうじゃないか、という全力全開の善意が小平太にとってのそれだ。
が、へろへろになりながら引きずり回される後輩たちが愛情として受け取っているかどうかは、当事者一同以外誰も知るところではない。第三者の目から見れば、委員長は自分のことばっかりで僕らの都合なんてお構いなしだと恨みつらみを溜めていても仕方ない状況ではある。
級友として一言弁明してやりたくはあるが、それも詮ない。
表情は変わらないまま僅かに眉を上げ下げした長次の反応を見て、三之助がぼそっと言う。
「誤解です」
「……。これではない、か?」
長次が宙に指で"愛"と書いてみせると、三之助は重々しく頷き、袖にくっついたままの金吾は涙まじりの声でぐすぐす呟いた。
「僕が、お習字の授業で書いた字のことなんて言ったから」
「金吾のせいじゃないよ」
俺たちみんな悪いんだ、と苦い顔の滝夜叉丸を横目でじろりと睨んでから、三之助は無表情なりに遺憾の意を示す顔つきになっている長次に向き直る。首をまっすぐに伸ばししっかり顎を引いて話し出した第一声は、少し裏返った。
「その、――その習字の題が"喜怒哀楽"だったっていう話から、滝夜叉丸先輩がいらない解説を始めて、そうしたら話が七松先輩のことになって」
大きいことから小さいことまで嬉しい時はわっと声を上げて喜ぶし、大抵の場合は機嫌が良くていつでも楽しそうで、でも予算申請を認められなかったりして怒る時は手を付けられない勢いで怒る。我らが委員長はそんな人だけれど、そういえば誰か七松先輩がへこんでいる姿を見たことはある?
ない。僕もない。私もない。
いつでも元気、いつだって陽気、腐らずいじけず無茶も無謀もいけどんで突破しちゃう七松先輩には「哀」がないね。
「……そう言ったのは僕なんですけど」
「悪口じゃないんです。でも、その場にいない人のことを面白がってあれこれ言うのは、良くなかったです。七松先輩にはちゃんと"哀"がありました」
白状した三之助は亀の子のように首を縮め、それを庇うように慌てて口を挟んだ四郎兵衛がしゅんと肩を落とす。
委員長を待つ間にわいわい話していた雑談の切れっ端が、集合場所にたどり着く少し手前で耳に入ったらしい小平太は、突如としてその場で縦穴を掘り出した。驚いて駆けつけた後輩たちに「構わないでくれ」と悲壮な顔で言い置いて、引き止める声に耳も貸さず苦無を振るい続けどんどんどんどん深く潜っていき、今では穴の中で動いているはずの頭のてっぺんさえ見えない。
地上に取り残された後輩たちが慌てふためきながら懸命に状況を整理してみるに、どうやら自分を指して「哀がない」というのを同音異義語の「愛がない」と理解した小平太は激しくうろたえ、衝動的に足元の地面にその動揺を転嫁した――らしい。
「ふむ」
溢れんばかりに注いでいるつもりでいた愛情をそうと受け取られていなかった(と思い込んだ)衝撃と、それがもたらした哀しさに耐えかねて、咄嗟の逃避行動に出たのだろう。人間離れしたその逃避のやり方はまさに小平太だが。
事態を把握して小さく唸る長次を、体育委員たちは固唾を呑んで見守っている。
どの顔も真剣で、委員長にならって穴を掘ってこそいないが、これ以上ないほどにへこんでいる。自分たちのせいで小平太を――「あの」小平太を落ち込ませてしまった、と。
「……心配ない。いずれ腹が空けば、自分から出て来る」
そうしたら今の話を説明して誤解をといてやってほしい。
一様に眉を八の字にした顔を眺め渡し、ぼそぼそ頼みながら、思わずちらりと口元が緩んだ。
長次の笑顔に恐懼して固まった体育委員一同の足元から、がきんと金属が石を噛む音が響いた。