「くせ」
雷蔵は見るからにうろたえた表情で、文字通り右往左往していた。両手を持ち上げようとして途中で止め、左手だけ下げかけて、首をかしげ、右足を少しだけ踏み出し、思い直したように両手をだらりと下げて、目まぐるしく動く。
「迷うな」
うろうろと雷蔵の瞳が左右に振れる。籠を揺さぶられたウグイスみたいだ。そんなことを考え、はあと聞こえよがしのため息をつきながら、三郎はもう一度言う。
「迷うな。雷蔵」
「だって、」
「ここは迷う場面じゃない」
「三郎、」
「お前の悪い癖だ」
「わたしは、」
言いかけて、ぐうと詰まる。ぎりぎりと握り締めた拳が体の横で震えている。それを見つめ、三郎は辛抱強く続ける。
「雷蔵、お前は忍者だろう」
「……ああ」
「学生だけど、忍者には違いないだろう」
「ああ」
「忍者として、こういう場面ではどう判断をするべきか、成績優秀なお前が分からないはずあるまい」
「……でも、わたしは」
きっ、と雷蔵が顔を上げた。怒っている。すべすべした額にしわを刻み、眉を吊り上げて三郎を睨む。
沼地の中に深く掘られた落とし穴に落ち込み、鳩尾まで泥に浸かって、身動きの取れない三郎を。
「怒るな。怒っている場合じゃないんだ」
ひゅんひゅんと風を切る剣呑な音が、お前には聞こえないのか。
学園長経由の書簡受け渡しで、長らく争いが続いていた2つの城の間に講和が結ばれる。その密使に学園の生徒から不破雷蔵、鉢屋三郎の二人が指名された。
ひとつの戦乱の終結を快く思わない輩が妨害を仕掛けてくるのは自明であり、この両名ならばそれに十分対処できると踏んでの抜擢だったが、敵は数に任せて追い込み戦術を仕掛けてきた。裏街道から森へ、更にその深部へと息つく間もなく追いやられ、浅いと見た沼地を駆け抜けようとしたところに罠が待ち受けていた。
不覚。
それ以外に言う言葉も感想もない。
忍び、なのだから。
「雷蔵、早く」
幸い、預かった書簡はお前が持っている。主君の命を果たすのが忍者の第一義だと、よもや忘れてはいないだろう。
「忍者である事だけが、わたしの全てじゃない」
雷蔵の怒った声が頭の上から降ってくる。三郎の視線の先に雷蔵の踝が見える。ああ、また沈んだようだ。腕だけは岸辺に掛かっているのに、それが手懸かりにもならないのが却って鬱陶しい。一体底にどんな仕掛けがあるって言うんだ。
後ろからは下草を踏み分ける足音が近付いてくる。それも一つじゃない。二つ、三つ、四つ――
「それは分かっている。分かっているから、」
三郎も歯噛みし、まだ自由な両手でぬかるんだ泥を叩き、叫んだ。
だから足手まといは捨て置け。早く行け。
「いいや、分かっていない。わたしは忍者で、学生で、お前の友人だ」
唐突に雷蔵は泥の中へ膝をついて屈み、両腕を正面から三郎の脇の下に差し入れると、力任せに引きずり上げた。
一息には持ち上がらない。腰骨辺りまで抜け出たところで、泥の中で見えない何かにがっちり挟まれた足がピンと伸び切り、三郎は思わず声を上げた。
「雷蔵、」
「黙ってろ」
「痛いよ」
「足が抜けないのなら、仕掛けごと引っこ抜けば問題ないだろう」
聞く耳がない。胴体にがっちりと腕を回し直し、気合を込めて引っ張る。
今度は背骨の辺りでめりめりと不穏な音がした。
窮地の人間を見捨てておけず、迷いやすいくせに大雑把。
そういう男がわたしの友人。
「厄介な男だ」
耳のそばで呟いたはずの三郎の声は、しかし雷蔵には聞こえていないようだった。
三郎越しに雷蔵がハッと見詰めた方向から、バリバリと枝を折り払う音がする。
来た。