「恋の一念通さで置こうか」


 日に当たると暑い、地面の下に日差しは届かない、従って塹壕掘りは涼しい、という何かが間違った三段論法で、体育委員会の今日の活動は誰が異議を唱える隙もなく決定した。
 それから既に数刻が経っている。
 直射日光に晒されないとはいえ、空気が循環しない土の中は湿っぽいし、狭い場所に密集して動き回る自分たちの人いきれで十二分に蒸し暑い。
「土の中も暑かったな。ははは、失敗したなあ」
 先頭を行く小平太があっけらかんと認めると、ひとかたまりになって後に続いていた後輩たちは、口々に声とも音ともつかないものを発した。
 どれも意味を成す言葉になっていない。が、それでも健気に返事をしようとしたことが、委員長の仏心を揺り起こしたらしい。前進し続けていた隊列が唐突に止まり、ごつんばたんとぶつかり合って、間に挟まった誰かがキュウと潰れた声を出す。
「よーし。今日はここまでにしよう」
 そう言って小平太は苦無を振り上げると、行く手ではなく天井を勢い良く穿った。ぼろぼろ落ちる土を掻き分け、押しのけて、地表へぴょこんと頭を出す。
「お?」
 一声上げて、そのまま動きが止まった。
「先輩。後ろがつかえています」
 遠慮がちに促す滝夜叉丸を振り返り、ニッと笑う。
「しまったぞ。我々はとんだ野暮だ」
「は?」

 塹壕から這い出してみると、地に潜る前は明るかった空はとうに日が落ちて、灯のない地中と大差ないほど薄暗い。
 それでも空気の清々しさは段違いだ。昼間の熱はまだ残っているはずなのに、そよそよと肌に当たる風は爽やかに心地良い。
「あー、涼しいー」
「涼しいねぇ」
 よほど消耗したのか、草の上にぺたんと座り込んだ四郎兵衛と金吾は外した頭巾で互いを扇ぎ合って、紐がほどけたような顔をしている。水を汲んで来る、と言って歩き出そうとしたところを全員に阻止された三之助がそれに混ざり、わざと乱暴に扇いで二人をキャーキャー言わせているのを横目に見つつ、滝夜叉丸は夜空を仰いだ。
 上弦の月の左側へ上手から下手に流れる、ぼおっと光る帯は、細かな星が無数に集まった天の川だ。
 雲のかけらもない夜の空に、その天の川を挟んで織姫星と彦星はひときわ白く輝いて見える。
「実際に星が動くわけではないのだな」
「え?」
 呟いた滝夜叉丸につられて三之助が空を見る。
「流れ星ですか」
「いや、そうではない。今日は七夕だろう」
「あ。織姫様と彦星様のデートの日だ」
 金吾がポンと手を叩く。その言い方では情緒がない、と滝夜叉丸が嘆くのをよそに、ぐるりと首を回して空を見渡した四郎兵衛は楽しそうな顔をした。
「よく晴れてるから、星がよく見えますね」
「ですね。うんと目が良ければかささぎの橋も見えるのかなぁ」
「橋を渡るのは織姫と彦星のどっちか、知ってるか?」
 三之助が口を挟むと、四郎兵衛と金吾は顔を見合わせ、同時に首を傾げて悩みだした。それを眺めて笑っていた三之助がふと滝夜叉丸を見て、「分かりますか」という顔をしたので、滝夜叉丸が口の動きだけで答えると、三之助は音を出さずに拍手をした。

 今時分は、橋を渡って織女と牽牛が逢っている頃だろう? その最中に地上へ出て来てしまったようだ。

 この天気では下界から丸見えだが、邪魔をしては悪いなあ――などと、あの委員長が珍しいことを言ったものだ。
 滝夜叉丸が小平太の台詞をぼんやり思い出していると、考え込んでいた四郎兵衛が思わずのようにこぼした。
「どっちかだけじゃなくて、両側から同時に渡り始めればいいのに。そうすれば、それだけ早く会えるのにな」
「それはいい考えだ」
「わあ!」
 思いがけない方角から薮を踏み折って小平太がぬっと現れ、金吾が声を上げてひっくり返った。
「そんなに驚くなよ。ほら、水を持ってきたぞ」
 がさがさと薮から出て来た小平太が腕に抱えていた水筒を地面に下ろす。いい湧き水の場所を知っているという言葉は三之助を止める方便ではなかったようで、一斉に手を伸ばし栓を外すのももどかしく口にした水は、まるで氷の粒を含んだようにひんやりと冷たく喉を滑った。
「七夕の話をしていたのか?」
「はい。橋をわたるのはどっちか、って」
「そうか。想い合う同士が年に一度しか逢えないというのは寂しいよな」
 天の川を振り仰いだ小平太がさらりと言うと、滝夜叉丸は踏み止まったものの、下級生たちは飲みかけていた水をブワッと吹き出した。
 らしくない感傷的な言葉を吐いた小平太は、恐々とした視線を物ともせず、空を見上げたまま問わず語りに続ける。
「他の相手を見つけることもしないで、互いに恋い焦がれて想いを募らせるくらいなら――」
 何を言い出すんだこの人は。
 あまりな反応の下級生たちをたしなめようとした滝夜叉丸も流石に硬直する。
「――天の川を泳いで渡ればいいのにな」
 そうすればいつでも好きな時に逢えるし! と朗らかに言い切って、小平太は同意を求めるように一同を見回した。
「あれ、賛成なし?」
「いえ……何か……」
「何と言うか……安心しました」
「え? 何が? まあいいや、明日は海へ出て遠泳をやろう! 水の中なら涼しいだろ」
「……四国にタッチしてターン、は無理ですからね」
「それより、この時期はそろそろクラゲが出ます……」


 想い人が息も絶え絶えに水びたしで岸から上がって来たら、百年の恋も冷めるか、その心意気に惚れ直すか。
 天上で見つめ合う二つの星は、相変わらず川の両岸でしらじらと光っている。





蛇足:織姫(ベガ)と彦星(アルタイル)の距離は14光年(1光年=9兆4600億kmの14倍で1.3244×10^15km)。