「かささぎの橋の上で」


 それまでとは違う風がふうっと抜けた時、最前から指先で器用にくるくる細筆を回していた三木ヱ門の手が止まった。
 視界の端でそれに気がつき、団蔵が帳簿から顔を上げると、正面に座る三木ヱ門は魅入られたように戸口の外へ目を向けている。
 何の気なしに同じ方を見て、声を漏らした。

「凄い空」

 熱波にぎらぎらと歪んで見えた太陽はいつの間にか隠れ、一面、墨を含んだ綿を千切って貼り付けたような分厚い雲に覆われている。幾層にも重なったその雲の群れは、まるで先駆けの功を争って牽制し合うかのように、むくむくと膨らみ形を変えながら広がっていく。
「この様子だと……」
「うん、来るな」
 団蔵が期待を込めて呟くと、三木ヱ門は疲れた声でそれに応じた。
 延々続く学級費決算の作業に倦んだ、だけではない。蒸篭に押し込められたような蒸し暑さが、集中力を根こそぎ萎えさせている。
 放課後の委員会室の中は未だ日中の熱気が渦巻き、開け放した戸口から気まぐれに吹き込む風は湿気と熱をたっぷり含んで、ぬるい空気をいたずらにかき回すだけだ。しかし一言でもそれに不平を漏らせば「心頭滅却すれば火もまた涼し」の怒声と共に会計委員長の鉄拳が飛んで来る。
 だから皆、肌にじっとり汗をまとわせて、一向に能率の上がらないまま黙々と計算を続けている。
 三木ヱ門は心持ち姿勢を下げ、声を落としてボソボソと言った。
「さっきの風に、雨の匂いが混じってた」
 団蔵もそれに倣い、首を縮める。
「じゃあ、もうすぐ降りますね」
「きっと雷雨だ。大降りになるぞ」
「少しは涼しくなるかなあ」
「いっそ嵐になればいい」

 割り込む声にぎくりと振り返ると、算盤に手を置いた文次郎は、二人ではなく空中の一点を睨んでいた。
「風は叫び大地は哭き、雷雨乾坤に満ちて、稲妻宙を裂き暗雲天を覆う。今宵の天気は荒れれば荒れるほどいい」
 その一点に何があるわけでもない。が、言葉につれて、そこを真直ぐ見据える顔に、見ようによっては凄惨な笑みがじわりと浮かび上がってくる。
 凝然と文次郎を見詰め、それからゆっくり顔を逸らした三木ヱ門は、沈鬱な表情を浮かべてゆるゆると首を振った。
 それを見た団蔵は曖昧に笑って、無理やり帳簿に注意を戻した。しかし続いて聞こえた一言に、ぱたりと筆を取り落とす。

「年に一度の逢瀬なら、下界から隠れて大っぴらにやりゃあいいんだ」
 
 文月七日、七夕の節句。
 遥か高みの大河の橋を、織女と牽牛は、そろそろ渡り始めたか。