「逃げろや逃げろ」
杉の木の天辺に黒羽の大鳶が止まっている、と見紛った。
「だからって」
ぶら下がった太い木の枝に懸垂の要領でひょいと這い上がり、好ましからざる先客はぶつくさ文句を垂れた。
「追い払うにしてもいきなり苦無を投げるのはどうかと思うよ、ドクササコの」
危うく打ち落とされるところだったと不満気な口ぶりとは裏腹に、包帯と覆面と頭巾に隠れて表情の見えない顔の中で、そこだけ覗く右目はニヤニヤと笑っている。
鳶や鷹ならいざ知らず、山肌を鬱蒼と覆う木々の中でも抜きん出て背の高い一本杉の上に、まさか人間がいるとは思わない。人間がいよう筈もないからこそ忍者はそこへ集まるのだが、なるほど、別口の忍者がいる可能性もあった訳だ。
関わり合いになると色々と面倒臭いタソガレドキ忍軍組頭に出くわすくらいなら、烏天狗だの人外化生の何かがいたほうがずっとマシだ。
「ここが合流点なんだから仕方ねえだろ。お前、どっか行けよ」
「えー。うちの部下にもここに集まるように言ってあるんだもん、組頭の私がどっか行っちゃう訳にいかないじゃない」
「だもん、っておっさんが言うな。イラッと来る」
「そんな形(なり)だから、逃げて来た脱走兵かと思ったよ。何が起きてるのあれ。噂通りの狐憑き?」
「……」
煩わしがる心中を察した上でわざと気安く話しかけてくるのを無視して、枝の上で器用に御貸具足を脱ぎ捨て、鈍色の陣笠を外して懐から取り出した手拭いで髪を覆う。
どこにでもいるような冴えない城兵が、それだけでドクササコの凄腕忍者と呼びならわされる威容を備えた姿に変わる。
「返事ぐらいしなさいよ。減るもんじゃなし」
「うるせえな。あの中は、」
呟いて眺め下ろした視線の先には、堀の外側を人馬の垣で十重二十重に取り囲まれた、玩具のように小奇麗な城がある。
つい先程までしんと静まり返っていたそこから今、場違いに風雅な奏楽の音が流れ始めている。
その調べの盛り上がりにつれて、城主一族を始め家臣や城兵、近隣の集落から避難して来た住民が閉じ籠もる城は今や絶望に満ち満ちているはずなのに、不思議と華やいだ雰囲気に包まれつつある。
「……おかしな熱病が流行っている」
「疫病か。うわあ、いよいよ末期だな」
梢を弾きながら落ちていった具足が地面にぶつかる音が、微かに樹上へ届いた。
城を囲む軍勢の軍団長と同じくとある大大名の傘下にあった城主が突如反旗を翻したのは、新年の挨拶を終えて帰城した早々のことだった。
それはまったく「突如」としか言いようのない謀叛で、大大名は即座に城を囲みつつその背景にあるもの、あるいは背後で糸を引くものを探り出そうと躍起になったが、暦がはや弥生を迎えた今もって動機は何も分からない。
温和な質で大殿の覚えもめでたいと評判の城主が放った唐突な喊声に、味方はおろか敵方までもが戸惑った。
実際、その蜂起に同調する動きは物理的な距離や城主との親しさの遠近を問わずひとつたりと無く、外部から密かに援助が行われている形跡もない。説得を試みようにも目的不明では取っ掛かりさえ無く、果ては「あやつ、狐が憑いたのでは」と大真面目に言い出す者まで現れる始末だ。
補給もないまま百日近くが過ぎ、城中の武器弾薬がいよいよ尽き果てたのか、攻め手への攻撃は十日以上も前に止んだ。
それ以降は根競べにも似た睨み合いが続いている。
が、とうに勝敗が決したのは誰の目にも明らかだ。
無用の交戦を避けるため数で圧力をかけようという戦術か、正月気分を楽しむ暇もなく僻地に張り付けにされたことへの嫌がらせなのか、この状況にあってなお攻め手は日ごとに軍勢を増している。籠城した城を攻めるには三倍の兵力が必要と言うが、それにしても集め過ぎにも程がある人数が、見渡す限り一面にひたひたと満ちている。
あとは落ちるのを待つばかりの城を押し包む鎧兜や黒い陣笠が日に照り映えてうごめくさまは、まるで獲物の衰弱を待ち構える蟻の群れのようだ。
守り手の城主はまだ若い。戦の経験も浅い。歴戦の猛者たる軍団長相手によくぞ今日まで耐えたが、援軍の来ない籠城の先には敗北が待つだけで、再恭順や和睦という選択肢は最初からない。
不可解な叛乱を起こした城主に今できるのは、敗け方を選ぶことだけだ。
己の首と引き換えに城内の人間の安全を確約させて開城するか。
城を枕に討死覚悟で徹底抗戦するか。
幽かな音曲を聞き取ろうと一心に澄ませている耳に、艶消しな声が無遠慮に侵入してきた。
「あの有様じゃ――名前は何と言ったかな、御内室はもう落ちのびてるのかな。実家の城はまだ大大名側に付いてるんだし」
名前どころか城主の妻の夜着の模様までとっくに承知しているのだろうに、そらとぼけた口調で尋ねてくるのが鬱陶しい。
が、妙な義務感に駆られて、答えた。
「奥方は中にいた」
「おや、それは剛毅だ。ところで、他のドクササコ忍者も城中に入ったのか」
もっともあの練度じゃただ死にに行くようなもんだねとへらへら言う。憎たらしいが、是非ともお頭(かしら)にお供しますと言い張る部下たちに同じ台詞を叩き付けたので、言い返せない。
「囲む方に混ざっている。お前は行かんのか」
「現場の活動は部下に任せているんでね」
「いいご身分だな」
「部下を信用していると言って欲しいな。万一やらかしちゃっても責任はぜーんぶ私の所に回って来る事になってるから、実に伸び伸びやってくれる」
水筒から伸びる吸い口を咥えたまま器用に喋るのを横目で睨み、ふんと鼻を鳴らした。
「部下がしくじったらお前が腹を詰めるのか。そいつは待ち遠しい」
「まさか。武士じゃあるまいし、腹を切りやしない。ただ私の首が飛ぶだけさ」
言い回しの綾ではなく、実際、飛ぶのだ。椿の花みたいに、ぽとん。
「一輪花なんて可憐なしろものかよ、お前が」
「そう言うお前は、いつも部下を見張っていないと心配なのか」
混ぜ返す口調だが、いくらか揶揄も含んでいる。いささか反撃したいらしい。
「俺が前線が好きなだけだ。うちの忍者隊は確かに練度は低いが、上の者が動いて見せれば下も否応無しに動く。命令だけして高みの見物は俺の性に合わん」
反撃の反撃に、ふーんと気のない声で応じられる。そこで終わるかと思ったが、気抜けた声のまま応射が来た。
「お前が前に立ちたがるのは、部下の無念を背負うのが嫌だからじゃないのかね。一緒に現場で殉職してやれば、それを負わずに済むのだからさ」
「だとしたら」
即座に言い返す。
「お前が後方でのんべんだらりとしているのは、目の前で部下に逝かれるのが怖いからか。後聞きの報告には血の臭いも悲鳴もない」
睨み合うでもなくお互いにしばし口をつぐんで視線をかち合わせる。そのうちに、また右目だけが笑うのを見た。
「つまり、私たちはどちらも臆病者ってことだな」
「三十六計なんとやら。逃げ切り上等だ」
「ふふん。あの狐城主はいずれにしても死ぬけれど、それで何から逃げるのだと思う」
「殿は臆病者じゃない」
この籠城戦が終わる時に自分は生きているまいと、とっくに覚悟は決めている。一族郎党の運命を載せて懸ける命は最善の有効打として使いたい筈だ。開城と抗戦のどちらを選ぶにしろ、心の裡に信じるものの為に全力で命をぶつけて散るのは、決して小心や怯懦に衝かれての逃避ではない。
しっかりと目を開いて最期とするべき時を見極めるのが戦を始めた己の責任と心得て、それを全うしようとしているだけだ。
自分でも驚くほど滔々と抗弁が口に上ると、笑っていた右目が今度はぽかんとした。
「随分と肩入れするじゃないか。もしかして、あっちの城に移籍するのか?」
「たった今沈みかけている泥船に乗りに行く馬鹿はいねぇ」
「だよねえ。……だよなあ?」
白けた空気が辺りに漂う。
その間を縫って、城中のそちこちから、いよいよ楽しげな笛や箏の音がりんりんと響いてくる。晴れやかな歌声や、時には明るい笑い声も交じる。
それと反比例するように、ひしめき合う大軍勢からは次第にざわめきが消え、人も馬もその場に粛と佇み、やがてそよ風になびく旗指物の他に動くものは見えなくなる。
「まさか熱病を拾って来たんじゃないだろうね。城の中はどんな様子だった」
気味が悪いくらいの士気だけど超霊験あらたかな御神体でも祀ってあるのかと、子供のように足をぶらぶらさせながら、自分こそ気味の悪い商売敵が言う。
何の気なしに言ったのだろう「御神体」という言葉に、手持ち無沙汰に帯をいじっていた手がちょっと止まった。
言い渋るほどの情報がある訳ではない。少しの間考えてから、口を開く。
「別に珍しいことはない。いつも通りの落城寸前の地獄絵図だ。ただ、」
自ら武器を取り救護所を設え、城内の人間を励まして回る若い城主夫妻は、どちらも度肝を抜かれるような美貌だった。
そして誰も彼もが、この世のものとは思えぬ好一対の生き人形に心酔し、全身全霊をあげて敬慕していた。
秀麗なるかな我らが御殿。美麗なるかな我らが御料人。
穢土こそ清浄なれかしと天上が遣わしたふたつの玉体なれば、必ず大事に扱われねばならぬ。決して敵に踏みにじらせてはならぬ。
これを護り奉じ殉じる事こそが我らが使命であり、至上の喜悦なり。
部外者の――そして現実主義者たる忍者の醒めた目で見れば、大儀のない謀叛に是非もなく付き合わされた家臣や領民が、たまたま美男美女だった城主夫妻を盲目的に祭り上げることで無理矢理団結し、その挙句己の生んだ熱に一丸となって浮かされて、無謀な籠城を今日まで継続したとしか思えなかった。
にわかに反抗した理由さえ未だに知れない、無為無策に城に立て籠もった城主がなぜここまでの尊崇を集めるのか、全く理解できなかった。
その玉(ぎょく)の顔(かんばせ)が、花の咲くように微笑むのを目にするまでは。
もう戦には飽きたのだとうそぶく、その鈴を鳴らすような声を耳にするまでは。
もしもこの戦に負ければ、これほどまでに綺麗な生き人形は、数多の俗世の穢れを背負って三途の川へ身を投じなければならない。
そんな最期は途轍もなく理不尽であるように思えた。
前後を忘れて憤り、魂が灼けつくような焦燥に駆られている自分に気付いた時、愕然とした。
結末を見届けずに潜入先から引いて来た――否、逃げ出したのは、どんなに振り払おうとしても、城主夫妻のおん為と叫び雲霞の如き攻め手の前へ立ちはだかる己の姿が容易に想像できたからだった。
そこまでは口にしなかったが、城主夫妻が美形だったという話で何を得心したのか、タソガレドキ忍軍組頭は深々と頷いた。
「へえーえ、なるほどねえ。なら、うちの殿には、何があっても籠城戦だけは絶対に避けるように進言しておかなくちゃ」
「なぜ」
短く問い返すと、黄昏甚兵衛ヘンな顔ー、とふざけた節をつけて歌ってみせた。
「だから、士気が上がらないこと甚だしい。すぐに落ちてしまう」
「……ところで、足を揃えて座るのはやめろ」
「なんで?」
「色々と萎える」
折良く城の中で、かぁんかぁんかぁん、と澄んだ鉦が続けざまに鳴った。
無駄に長引いた戦もそろそろ仕舞いだ。
――奏楽の音が鳴り止むまでに、綺麗ないかれ者は何を決断をすることやら。
果てのない川の中をくるくると回りながら流されて行く男女の人形の幻が、目の前にふと浮かんで、消えた。