「今に見ていろ」


 日差しを跳ね返して白く輝く包帯が、秋晴れの空を背景にそよそよとなびいている。
 最後の一本を竿へ渡し終わり、風で飛ばないよう端を結び付けて、諸泉は高々と干し上げた包帯の群れを見上げた。
「はーあ……」
 ふやけて擦りむけた指の先をこすりながら、爽快な眺めに思わず溜息がこぼれる。

 おかしな食事の仕方をする組頭のお陰で――お陰で! 洗濯物の染み抜きがすっかり上手くなった。多少の血痕は言うまでもなく、油汚れもお茶の染みも菓子くずがこびりついて乾いた痕もなんでもござれだ。もし万が一失業したとしてもこれを生業にして食っていける自信さえある。
 今だって、盥(たらい)にぬるま湯を汲んで洗濯板とへらを駆使して格闘している後ろで、詰め所の外廊下に横座りした組頭に「お前のお嫁さんになる人は運がいいねえ」などと茶々を入れられていたくらいだ。
 ところでタソガレドキ忍軍の賄い方が作る食事は旨い。
 忍者とはなにしろ体力勝負の仕事だから、三度三度の食事だけでは腹が減る。
 そこで昼食と夕食の間に腹塞ぎの補食が出るのだが、身を切るような冷たい木枯らしも吹き始めたこの季節、任務や訓練で思い切り体を動かした後に温かい食べ物が出て来るのは文句なしにありがたい。
 しかし、しかしだ。

 交換したばかりの包帯と熱々のカレーうどんは最悪過ぎる組み合わせだ!

「……それくらいのハネは落とせる、落とせるけどさ、よりによってだ……」
 思わぬ所まで飛び散る汁が厄介な汚れを残すカレーうどんを補食の献立に選んだ賄い方と、交換したばかりのまっさらな包帯と頭巾をつけたままそれを啜った組頭と、どちらをより恨んだらいいんだろう。
 雑渡が丼を空にした一秒後には諸泉は雑渡の顔の包帯をひっぺがしていた。
 黙りこくったまま洗濯に使う湯を沸かしに厨房へ走り、工夫を重ねて独自に調合した特別な洗剤を引っ張り出し、洗い用と濯ぎ用の大盥を担いで営庭へ飛び降りた諸泉に、雑渡はさすがに拙いことをしたと思ったらしい。諸泉が包帯を洗っているところをわざわざ近くで見ているなど、暇そうに見えて実は多忙な雑渡にはついぞ無かったことだ。あまり面白くないからかいの言葉を節々に飛ばして来るのも、不機嫌を隠そうともしない諸泉をなだめようとしてのことで、

 そう言えば、その茶々が聞こえない。

 頑なに背中を向けていた外廊下の方をちらりと振り返ると、いつの間に営庭を回って来たのか、山本が雑渡のそばに立って二人で何か話している。
 が、どことなく様子がおかしい。
 どれだけ「やめてくれ」と皆から懇願されても脚を流して横座りする雑渡が、今はまっすぐ揃えた膝に手まで置いてきちんと座っている。地面に立っている山本を見上げ、時おり頷いたり首を動かしたりはするが、自分からは殆ど喋らない。
 こちらに横顔を見せている山本の姿は普段と変わりない。地面に膝をつかず廊下に座る組頭を見下ろしているのが、上下の別を疎かにしない山本らしくないと言えば言えるが、言葉の内容までは聞き取れないものの、物干場まで流れて来る低い声はごく穏やかだ。

 ただの雑談? でも、それにしては組頭が妙にしおらしいような……あの傍若無人な組頭が。

 そう考えて、諸泉ははたと気付いた。もしかして、組頭、叱られてる?
 諸泉が雑渡の顔から包帯をむしり取っているまさにその時、たまたま報告に訪れた山本はそれを目撃した。
 部屋の中に濃く残るカレーの匂いと脇にどけられた空の丼と、籠に山盛りになっているこれから洗濯するところだった使用済みの包帯から事の次第を察したのか、山本は組頭に無礼を働く諸泉を止めようとはしなかった。諸泉が足音荒く立ち去ろうとするところへただ一言、忍者がばたばた歩くものではないと注意しただけだ。
 状況を鑑みるに非があるのは雑渡、と判断したらしい。
 そして今、日の当たる気持ちの良い庭先で、雑渡に説教している――ようだ。
 山本は居丈高になるでも声を高くするでもない落ち着いた態度なのに、淡々と重ねられる言葉が醸し出す威厳に気圧された組頭は、自ずと居住まいを正している。山本は雑渡よりも十近く年上だが、だからと言うだけで、殿の小言も右から左へ受け流す雑渡がこんなに神妙にする訳がない。部下の物静かな叱責が十分にこたえているのだ。
「……小頭、渋い」
 さっきとは違う意味の溜息が漏れた。
 気の張らない場に移ってからさり気なく現れる気遣いと、上司に向かって非を非と指摘しながら居直りではなく反省を促す、悠揚かつ厳とした佇まい。言葉ひとつ、行動ひとつに有無を言わせぬ説得力を持ちながら決して威圧的ではなく、それどころか包み込むような懐の深ささえ感じさせる。
 ただ年齢を重ねただけで自然と身に付くものではない。あれこそ円熟味と言うものだ。

 俺はちっとも悪びれてくれない組頭への当てつけにわざと乱暴に動き回って、気を使って声を掛けて下さるのも、まるで知らぬ振りをしていたと言うのに。

 ……俺もいつか、あんな「大人」になりたいな。なれるかな。

 竿に下がって揺れている包帯にそっと向き直り、まだつるりとした頬に手を当てて、苦み走った表情を作ってみる。
 出し抜けに、ひらひらした帳(とばり)が左右に割れた。
 包帯をかき分けてその向こうからひょいと顔を出した高坂が「組頭はどちらに――」と言い掛け、立ち竦む諸泉を見て、止まる。
「どうした。奥歯が痛いのか」


 ちーがーいーまーすー、という諸泉の大声に振り返った山本は、戸惑い顔の高坂と地団駄を踏む諸泉の姿に首を傾げつつ、こっそり腰を浮かせる雑渡を目の端に捉え「お直り下さい」とぴしりと言った。