「四方八方一方通行」


 賑やかに鳴き交わしながら、カラスの群れが次々と山の中へ飛び込んで行く。
 その声につられて仰いだ空は、沈みかけた大きな夕日が西の半分を茜色に染め、東の半分は月に導かれた藍や群青の帯が濃く淡く色を重ねている。
 正反対の色調が見事に調和して溶け合った中天と、その中を軽やかに飛び去って行く鳥の影をしばし眺め、だだっ広い畑の中をとぼとぼ歩いていた作兵衛はぽつりと呟いた。
「誰そ彼れ時、だな」
 その途端、両腕に巻きつけていた縄がビンッと張り詰め、作兵衛の足が一瞬地面から浮き上がる。
「タソガレドキ忍者か!? あっちだな!」
「え、どこに? こっちか?」
「違う! 止まれ! 裂ける!」
 半裂きにされてたまるかと作兵衛が渾身の力を込めて引き戻した縄の先で、がっちり結び付けられたままてんでに駆け出そうとしていた左門と三之助がバタバタと足踏みをした。
「曲者がいるのだろう? 放っておく訳にはいかない!」
 右手側の左門が決然とした表情で振り返る。
「潮江先輩か、お前はっ」
「そうだよ。タソガレドキ忍者には五年生だって敵わなかったんだから、俺達じゃ尚更だ」
「じゃあお前はどこに行くつもりだったんだよ」
 しゃらっと左門を諭す三之助に声を尖らせて作兵衛が尋ねると、左手側の三之助は、ついと北北東を指さした。
「どこって、先生方へ報告しに学園へ」
「学園はここから南南西だ!」
「だからあっちが南……あ? あー、こっちか」
 作兵衛がびしっと示した方角へ訝しげに指を反転させた三之助だが、夕日を見てあっさり納得する。月は東に日は西にと歌うように言って、したり顔で頷いているのを張り倒したい衝動が駆け抜け、作兵衛はぎりぎりと両手で縄を引き絞ってそれを堪える。
 いつものことだ、いつものことだ、これくらいで堪忍袋の緒を切っていたら俺はそのうち使用済み堪忍袋だけで第二の富士山を作っちまう。
 それだけデカい目印が出来たらさすがのこいつらももう迷わないだろうか? と一瞬考えて、考えた自分に呆れたのち暗澹とした。自分で思ってる以上にキリキリしてるのかなあ俺は。
「作兵衛、曲者はどこだ!?」
「いねえっつうの。三之助! ちょっと惜しいがそっちじゃない!」
 見えない敵を闇雲に追って行きそうな左門と、西北西にふらふら足を向けようとしている三之助を牽制しつつ、やっとのことで学園の方角へ少しずつ進み始める。
 引きつ引かれつ、前になり後になりえっちらおっちら歩く三人の頭の上へ、別のカラスの一団がやって来る。
 その群れは鋭い一声に従って大きく左へ旋回すると、遠くに見える山へ向かって、ひとかたまりになって一直線に飛んで行く。バサバサと力強い羽音やまるで会話をしているような鳴き声が次第に遠ざかり、ひとしきり騒いでやがて静かになったのは、カラスたちが無事ねぐらに帰り着いたからだ。
 自分が出ていった巣に自分で帰って来られる点はこいつらよりもカラスの方が賢い、と、ささくれた作兵衛はちょっと意地悪く考えた。

 学園で飼っている鳩もそうだ。自分が育った加藤村の場所がちゃんと分かってるから、確実に手紙を運んでくれる。そう言えば、加藤村の馬はあるじがいなくなっても自力で村へ帰れるって、しんべヱと喜三太から聞いたっけ。孫兵のじゅんことかきみ太郎はしょっちゅう逃げてるけど――自分の意志で脱走してるんだから、迷子とは違うよな。探しまくってる生物委員を尻目にいつの間にか元の小屋へ帰っていることもあるし、それを見た竹谷先輩はやれやれって顔をして、大抵の生き物は自分の巣に帰る習性があるからなぁって苦笑いしてた。修理が済んだ小舟を川へ運んで試しに浮かべた時には、越前辺りから北の地方では川に鮭が上ってくるって、食満先輩が教えてくれたな。川で生まれた鮭が一度海へ出て、卵を産みにまた帰ってくるんだって。偉いよなぁ。偉いよなあ!
 カラスに鳩、馬、蛇、トカゲ、果ては鮭まで持っている習性が、なんでこいつらには欠けてるんだ?

 むっつり押し黙った作兵衛とは対照的に、左門と三之助はあっけらかんとお互いの方向音痴ぶりを指摘し合っては反論し合っている。そのやりとりに熱中している間は少なくとも突然明後日の方角へ走り出しはするまいと、半ば悟りを開いた様な気分で不毛な議論を聞き流していた作兵衛は、海に出たきり故郷に帰らない鮭も少しはいるんじゃないだろうかと、ふと考えた。
 海には危ない敵もごまんといるけれど、珍しいものやおいしい餌もあるし、何しろ川よりもずっとずっと広い。いくらでも好きなだけ泳ぎ回れることについ夢中になって、生まれた川へ帰りそこねるうっかり者だっているだろう。だとすると、鮭の世界にも迷子を探す係がいるのかもしれない。ほとんど無限なぐらい広い海の中を右往左往して、おーいどこだあ、どこにいるんだあと声を嗄らして、あの岩陰を調べ、この海藻の中に潜り、

 ああ、実に難儀だなあご同輩!

「なあ作兵衛、左門はそうだけど俺は方向音痴じゃないよな?」
「行く先を決めないで適当に進むから、三之助は迷子になるんだ。進退は疑うなかれ、ただひたすら決断あるのみ、だ!」
「えーいやかましい、この行ったきり鮭どもがぁ!」
 物思いの続きで思わず放った作兵衛の啖呵に、三之助の下顎ががくっと落ち、左門の口がばくっと閉じた。
 そのまま三者三様、しばし黙り込む。
 自分たちは一体いま何を言われたんだろうと珍しく呆気に取られている二人を見て、アホなことを言っちまったと頭を抱えたくなっていた作兵衛は、ちょっぴり気を良くした。……たまには、俺が唖然とさせてやったっていいよな!
 作兵衛は先を行っていた二人に駆け寄るとその間に割って入り、左右の背中を勢い良くばしんと叩いた。そのまま着物を掴んで前へ押し出す。
「ほら、歩け歩け! 急がないと夜になっちゃうぞ」
「ん? ああ、うん」
「うーん?」
 まだ合点がいかないらしく口々に唸りながら、促されて左門と三之助が歩き始める。
 そっか。こうやって背中を掴んでいれば、とりあえず学園までは逃がさないで帰れるな。
 名案にますます気を良くした作兵衛はその時、全体が濃紺に変わり始めた空の上で、カァと鳴いた声に別の位置からカァカァと答える声を聞いた。それに続けて最初の声の方へ羽音がひとつ向かって行く。その羽ばたきが、なんだかくたびれている様に思えるのは気のせいかな。
 あそこにも迷子と捜索係がいるんだ。

「お互い頑張ろうなぁ!」

 唐突に上を向いて叫んだ作兵衛にぎょっとして顔を見合わせた左門と三之助は、しっかり頷き合うと作兵衛の背中に手を回してぎゅっと掴み、表情を引き締めて真直ぐ前を向いた。
 その方角は合っている。今のところは、まだ。