「旗を撃ち抜け」


 もう子の刻は過ぎたのかしらと、緩やかな風に紛れて囁くような声が聞こえた。
 突庵はほとんど仰向けになるほど頭を反らし、頭上に幾重にも差し掛ける枝葉の向こうに目を凝らして、暗い空にちかちか瞬く微かな光を探した。ひときわ背の高い一本杉を起点に、目印の星がそこからどれくらい離れたか読み、ここに来てから過ぎた時間を指折り数える。
 うん、と頷いて、答えた。
「過ぎたようだよ」
「独り言に返事をしないでくれる、突庵望太」
 山の麓から目を離さず、つっけんどんに北石が言う。
 塀の内側のそこここに焚かれた篝火が、闇夜の中に小体な屋敷をぼおっと浮かび上がらせている。円形に広がって繋がる明かりの中を時折、物々しく武装した見回りが横切る。
 その人数を数え、風体を目に焼き付けて覚えつつ、じっと山の中腹に潜んで侵入の時機を窺うこと既に三刻(6時間)あまり。まだ浅い春の夜は骨に染み入るように寒く、ひたすら待つだけの身にじわじわと堪える。
「その名前を呼ばないでくれってば。派遣先じゃ村名琴頼で通してるんだから」
 かじかんだ手をさすりつつ突庵が抗議すると、北石はちらりと横目をして、妙に蓮っ葉な調子でふんと鼻を鳴らした。
「突庵望太、突庵望太、突庵望太!」
「あ、あのねえ……」
「誰に聞かれる心配があるってのよ。ここには私とあんたしかいないのに。忌々しいことに!」
 不意にぐるりと首を巡らせて突庵に向き直った北石は、イザナギに禁忌を破られたイザナミさながらに、呪わしげに表情を歪ませた。
「日付が変わったから、今日は上巳の節句よ。女の子の祭りの日なのよ。健やかな成長をのんびり言祝がれたいところだけどそんな日に仕事なのは忍者なんだからまあいいわ。だけどどうしてよりにもよってこの任務の相方があんたなのよ突庵望太!」
「女の子って……、君、僕とそう年は違わないだろ」
「何が言いたいの?」
 暗闇の中に白っぽく浮かび上がる大きい目が、ぎろりと剣呑な光を放つ。
 首をすくめ、突庵は遠く見える橙色の篝火に黙って目を移した。

 先頃、未だ壮年だったとある大名が急な病を得て遺言を残す間もなくはかなくなり、二十二歳の長男が後を継いで当主となった。
 何のことはない、どこにでもある代替わりだ。
 それがすんなりと行かないのもまた世の習いではある。
 先代当主には三人の男子がいた。そのうち長男とまだ幼い三男はそれぞれ別の側室が成した子で、今年で十五歳になる次男だけが、正室の生んだ嫡男だ。
 先代に仕えた家臣団は老若取り合わせまるごと残っているから、新当主が若年であろうと補佐に不足はない。当然、次男が家督を継ぐと目されていたのだが、いざ蓋を開けてみれば、跡目を襲ったのは庶兄たる長男だった。
 その理由は、武勇に秀でる長男に比べ次男は戦に向かない気の優しい性質であるから相続を辞退したとか、正室の実家よりも側室のそれの方が家格が上であるからとか、いやこれは次男が二十歳になるまでの(ただし二十歳という年齢に根拠はない)仮の相続であるとか、傀儡を立てようと目論むこの地方を牛耳る太守の命令であったとか、無責任な噂ばかり喧伝されるが、本当のところは分からない。
 年の離れた兄弟同士は、それでも仲が良いそうだ。
 だが母親たちとそれに追従する家臣団は、元々これでもかと言うくらいに仲が悪かったのが、いよいよもって決定的にひび割れた。
 結果、担がれた神輿の意向に関係なく長男派と次男派で家中が二分され、日々何くれとなくいがみ合っているのだという。

 いま見下ろしている屋敷は、正室の実家の別邸だ。夫を亡くし出家するので、その前に隠居した母親に会いに里帰りをという名目で、正室はもう二ヶ月も手駒を引き連れたまま逗留している。
 天賦忍者協会に仕事を頼んできたのは、それを怪しんだ長男派の武将だった。
 里帰りなどは真赤な偽り。なさぬ仲の現当主を害する良からぬ企みをしているに違いない。是が非でもそれを探り出して欲しいと、二ヶ月の間に十五回も派遣依頼があった――という話を、最近まで別の城で働いていた突庵は、協会の差配役から聞いている。
「確信があるんじゃなくて猜疑心なんだろうね。自分たちも疚しいことをしているからさ」
 篝火の光の輪に踏み入った人影を観察しつつ突庵が呟くと、北石は少し眉を吊り上げたが、何も言わずに薄く唇を噛んだ。
 老女の侘び住まいである別邸の敷地はそれほど広くない。しかし巡回している見張りは不釣り合いなほど数が多く、携えている得物はどれも、隠居所の静謐な風情に似つかわしくない物騒なものばかりだ。
 それにたった今見た人影は――身ごなし、目配り、足運び、間違いなく手練れの忍者だ。

 派遣期間が終わって突庵が協会へ戻って来た時、何気なくぱらぱらと登録名簿を眺めてみると、おやと思うほど登録人数が減っていた。マイタケ城に就職したかつての仲間のように出向いた先で気に入られて正式に採用されたり、個人的な就職活動が実を結んだり、別の生計を見つけて忍者を廃業したりして人が出入りすることは珍しくないが、それにしても――という減り様だった。
 実戦経験豊富で優秀なくの一である北石は、今回が二度目の屋敷潜入だ。
 名簿と一緒にめくってみた就業記録によれば、一度目の相方は同じくの一で、名を聞けば顔を思い出せるくらいには突庵も見知っていた、北石と気の合う勝気な娘だった。
 派遣先で任務をしくじれば否応なしに登録名簿から名が消える。
 十五回の依頼に応じて出て行った二十数名のうち、戻らなかった者が半数近くいるのを、突庵は名簿を見て知った。

「あのさ」
「何よ」
 瞬きもせず屋敷に目を据えている北石に小さく呼び掛けると、硬い板にぶつかった石が跳ね返るように素早く声が返って来た。
「忍術学園の近くの峠にある茶店で、"今だけ限定! 桃の節句お祝いセット"を売り出してるんだ」
「はあ?」
 裏返り気味に反問する声が金属的に尖る。突き刺さりそうなそれに構わず、突庵は続ける。
「山梔子(くちなし)と蓬と菱の三色餅に、上等のお茶と桃酒一杯で、値段は……いくらだったかな。忘れちゃったけど、」

 この任務が無事終わったら、打ち上げがてら食べに行こうよ。君の健やかな成長を祝って僕が奢るから。

 ふっくりした頬を変に緩ませもせず真顔で言う突庵を、いささかきまり悪くなるほど目を丸くしてじっと見詰めていた北石は、やがてぎゅうっと鼻にしわを寄せひどく嫌そうな顔をした。
「やめてよ。失敗の前振りに聞こえるわ、それ」
「そうかい。あの茶店の餅、おいしいんだよ。食べたことない? それは勿体ない」
 白々しくはぐらかし呑気そうに笑う突庵を北石はちんくしゃのまま睨んでいたが、やがてふっと愁眉を開くと、にんまり口角を持ち上げた。首元にたるませていた覆面を引き上げつんと澄まして言う。
「なら、せいぜい楽しみにしてるわ。言っとくけど私、結構食べるわよ。あんたは財布の心配してなさい」
「えー……、同じ派遣社員なんだから、財布の中身なんて似たようなものだろ。配慮願います」
「善処します」
 悲しげに眉を下げてみせた表情を覆面で隠した突庵は、口をつぐみ手振りで侵入手順を確認しながら、屋敷を見下ろす北石の強い目を見て覆面の下でふと微笑んだ。