「意気地あります」


 入門票に記名する少しの間も待ちかねたように、目を輝かせた小松田が勢い込んで言った。
「知ってますか、利吉さん」
 山の字の一画目を書いている途中だった利吉は目だけ動かし、期待に満ちてぴかぴかしている小松田の顔を見る。
 何を? と聞き返さなくちゃいけないんだろうか。
 仕事で学園の近くまで来たついでに、「次に帰る時は中くらいのお皿を一揃い買って来て」という母からの伝言を父に伝えてすぐに発つつもりだった。母が所望する皿の用途が食事ではないらしいのは少々気掛かりだが、明日も朝から別の仕事が入っているし、その準備も必要だ。ここで長々と足止めを食うのは避けたい。
 止めた筆の先でじわりと墨がにじむ。
 聞こえなかった振りをしようと決めた利吉は素早く続きを書き上げると、小松田に入門票を押し付けてさっさと歩き出した。
 が、小松田は箒を抱えて小走りについて来る。
「正門の掃除は?」
「もう終わりました。あのですね、」
 反応のあるなしに関わらず喋りたいことは喋るらしい。胡乱な表情で横目をする利吉を見上げ、小松田は妙に真剣な面持ちで自分の目を指す。
「新野先生に教えてもらったんですけどね。泣いたあとに目が腫れるのは、涙を拭って目をこすった時に、まぶたの細い血管が切れるからなんですって」
 そう言って、自分のまぶたを指先でつまんで引っ張る。
「へえ」
 歩きながらそんな事をしたらうっかり自分の目に指を突っ込みやしないかと思いつつ、利吉はあまり熱のこもらない相槌を打つ。
「だから、泣く時は手拭いとか袖とかを目に押し当てて涙を吸い取らせると、目が腫れなくて済むんです」
「ふうん」
「目玉が赤くなっちゃうのはしょうがないけど、水で冷やしたりして何とかごまかせば、泣いたことが他人にバレません」
「そう」
 お役立ち情報ですと確信を込めて言い切る小松田に、何とも言いようがなくて利吉は独創性のない返事をする。
 いいことを知ったから誰かにも教えてあげたい、という純粋な好意は感じる。なぜそれを自分に教えるのかという疑問は残るが。
 それは経験則かとからかい半分に尋ねようとして、利吉はふと口をつぐんだ。

 そら恐ろしいほど我が道を行く事務員だが、だからと言って何をされても堪えないという訳ではないのは、不本意な付き合いを通して知っている。きつい目に遭えば人並みに落ち込むし、へこみもしている。若干鬱陶しいほどに。
 その一方で、やや方向を間違っているきらいはあるが、基本的には努力家で意外と負けず嫌いでもある。仕事の失敗を叱られたり、理不尽に怒られたり侮られたりして、悔しい悲しい頭に来る! と歯噛みすることくらいあるだろう。
 しかし、例えそのために涙を流したとしても、それを人に悟らせたくない――意地を張りたい――という気概があるのか。
 それこそ意外だ。

 と言ったら気を悪くして膨れるのか、実はそうなんですよと笑うのかどちらとも読めず、利吉は心ならずも困惑しながら、定句を口にする。
「それはいいことを聞いた。今度、試してみるよ」
 まるで見えない壁にぶつかったかのように小松田が突然立ち止まった。何事かと釣られて足を止めた利吉に、いっぱいに瞠った目を向ける。
「利吉さんでも泣くんですか!?」
「君は私を何だと思ってるんだ」
「血も涙もない仕事の鬼」
 即答した。
 一瞬すら躊躇わない。
 かくかくと首を傾け、利吉はどんよりと呻く。
「……うん、今、ちょっと泣きたいかな」
「えっ、お仕事で何かあったんですか。大丈夫ですか?」
 最後に号泣したのは何歳の時で、原因は何だったっけ。
 頭のどこかに埋もれた記憶を掘り起こすのに集中することで、利吉は無心に心配する小松田に一撃入れたい衝動を辛うじて逸らした。