「オーバーヒート階差機関」
想像してみてよ。
絶世の美女、あるいは美丈夫が目の前に現れて、溢れんばかりの親しみを込めた態度で接してきたとする。
ああ、何かの罠や敵ではないことは明らか、と条件を付けておこう。とにかくこちらへの害意は全くない相手だ。そうしたらきっと、驚き、戸惑い、どぎまぎして直視できず、顔を伏せ加減にしてちらちらと相手を窺い見るのが精一杯だろう。
その間にも美女または美丈夫は悠然と歩み寄って来る。いっそ神々しいほどのその気配に、ますます目を逸らしてしまう。そこへ優しくも凛とした抗いがたい声音で「面(おもて)を上げよ」と言葉をかけられ、恐る恐るその尊顔を拝し奉らんとしたその時――
優雅に微笑む美女または美丈夫の前歯が1本抜けていたら。
「台無しだな」
「そういう事だよ」
「どういう事だよ」
手のひらに収まるほどの小さな骨と、厳粛な表情の伊作を交互に見て、留三郎は実に腑に落ちない顔をした。
それから傍らに大人しく控えている骨格標本のコーちゃんに目を向ける。そこらの男より余程色白には違いないが、じっと見つめ返してくるその面差しは果たして白皙の美丈夫と呼べるのかどうか、留三郎には判別し難い。
床に飛び散る薬草とひっくり返った薬研、壁の前でバラバラに崩壊したコーちゃん、その懐に抱き止められている伊作。
自室の戸を引いてその図を目にした瞬間に状況を把握した留三郎は、薬研に蹴つまづいてすっ転んだ主を身を捨ててかばったように見えなくもないコーちゃんに、まず拍手を贈った。それから目を回している同級生をひとまず脇にのけ、薬草を掃き集め床に雑巾を掛けたのち忠臣の修復にかかったのだが、完璧に組み上げたはずなのに手元にまだ部品が残っている。どうやらまた、どこかの骨を入れそこねたらしい。
その「どこか」がどこなのか分からない。
しかしコーちゃんは何も不都合がない様子で姿勢良く端座している。
「と言うことは、実は人の体には無くてもいい骨なんじゃないか、これ」
指先に摘んだそれを掲げて留三郎が横着なことを言うと、伊作がしかつめらしい顔で歯抜けの美女または美丈夫のことを言い出したのだ。
「いいかい。人体は200本以上の骨が精緻に組み合わさって構成されている」
「それは今体感した」
立体人骨パズルは途方もなく面倒臭かった。皮膚の下に自分も同じものを持っているのだとしたら、人間とはなんと複雑な構造をいとも容易く使いこなしていることかと、感動のひとつもしたいくらいだ。暇な時に十秒くらい。
「例えば、左足の小指の骨を折ってしまったとするだろう」
寝間着の裾をからげて伊作は自分の爪先の外側を指さした。薬研を蹴飛ばしたのがその辺りなのだろう、うっすらと赤くなっている。
「そうすると左足の爪先を地面について歩くのは難しい」
「そりゃ、痛いからな」
湿布を張っておけばいいのにと思いながら留三郎が相槌を打つ。箪笥の角にぶつけるとか戸口の敷居につまづくとか、あの手の怪我はいつまでも地味に痛くて厄介だ。
「そこで松葉杖を使う。そうすると、左足の爪先にかかるべき負荷が右足の甲にかかる。右足の甲にかかる負荷は左足首に、左足首にかかる負荷は右膝に、右膝にかかる負荷は左股関節に、左股関節にかかる負荷は右腰に、右腰にかかる負荷は左側後背筋に――」
興が乗った様子の伊作は身振りを付けて説明するが、留三郎は急速にまぶたが重さを増すのを感じた。
そう言えば今日は起床してから今まで、三分間以上腰を下ろすのはこれが初めてだっけ。丸一日かけた野外実習では食事の暇もなく、学園に戻った放課後には修理修補で大道具を抱えてあちこち巡回して――
ふと横を見れば、コーちゃんは心持ち前傾しつつ、伊作の講義を静聴している。
偉いもんだ。抱え込んだ伊作の頭にがっぷり噛み付いていたことは黙っていてあげよう。なにしろ五体を飛散させられたのだ、それくらいのささやかな仕返しは許されていい。
「――どんどん負荷が反対側へ転嫁されて、その反対側もまた負荷を軽減するべく常より力を出さなきゃいけないから、右側後背筋が緊張して、その影響で左腰が強張って、その影響で僧帽筋及び、」
「頭の中に訳の分からん相関図が広がってきた」
胡乱な顔で留三郎が訴えると、軽く頷いた伊作は思い切り良く言葉を切った。
「要するに」
留三郎の手の中から骨を拾い上げ、小さく振ってみせる。
「どんなに小さな骨でも不要な骨は無くて、ひとつでも欠くと全体の調和が崩れて必ずどこかにガタが来るから、人体にとって大事(おおごと)だってこと」
要するにと言って、本当に要約するとは。
なら最初から一言で説明すればいいのに、と留三郎は思うが、言わない。本格的に差してきた眠気が、まぶたに続いて口も重くする。
体育委員会の掘った塹壕と傍迷惑な天才トラパー作のタコ壺を埋め戻す作業に予想以上に手間を食い、その合間に会計委員長と取っ組み合いをして2戦2引き分け。いや、奴が何と言おうと一度はこっちが勝ったはずだ。部屋に帰って休めるかと思えばご覧の有様で、コーちゃんの組み立てに頭を悩ませ、けったいな例え話と理屈っぽくややこしい話を続けざまに聞いて、なんだかボロ雑巾にでもなったような気分がする。早いところ寝間着に着替えないと、制服のまま朝まで寝こけてしまいそうだ。大体、今、何時だ? 消灯時間をとっくに過ぎているのは確かだけれど。
こんな夜更けになっても、コーちゃんはきっかり目を開いてシャンと背中を伸ばしている。
「骨を抜かれてもコーちゃんは元気だな」
全くもって偉い。得体の知れない物と一緒に鍋で煮られたりバレーボール代わりにされたり日々苦労しているんだから、たまには横になってぐっすり眠りたい時もあるだろうに。
あ、布団がないか。板敷の床に転寝は辛い。骨だけの体なら尚更だろう。
「まだ言う? そういうこと言ってると、それと同じ骨を引っこ抜いちゃうよ」
「おっかないこと言うなよ。それに、これ、」
言いかけて、こらえ切れずに横を向いて欠伸をした。
「――結局、どこの骨?」
「そこ」
ピッと留三郎に向けた伊作の指先を、半分がた閉じかけた目でのろのろ辿る。
その終点に視線が着地した一瞬、うなじ辺りの髪が逆立った。目の前の風景がくらっと流れて歪む。
「ここ?」
指さして確認する。至極真面目な顔で伊作がこっくりする。留三郎は粛然と座すコーちゃんに唐突に向き直ると、膝を正して床に手をついた。
「知らぬ事とは言え無礼極まる振舞い、誠に申し訳有りませんでした!」
「……、ごめん留三郎、疲れてたんだな。僕が悪かった。もう寝なよ。寝ろってば。布団敷くから。ねえ、ほら」
ぱたぱたと肩を叩いても骨格標本に頭を下げ続ける同級生がその姿勢のまま眠り込んでいることに気付くまで伊作はしばらくの間途方に暮れ、気付いたあとは、どうやって着替えさせて布団に寝かしつけたものかと、また途方に暮れた。