「今日の主役がお待ちです」


「あらまぁ、なあにこれ。ずいぶん賑やかねえ」
 裏口からひょいと顔を覗かせた隣のおばちゃんが、部屋の中を一瞥するなり呆れたように大きな声を出した。
 手作業に没頭していた土井はおばちゃんの声にはっと顔を上げたものの、思いがけない周囲の明るさに一瞬目が眩み、声がした方角を見失って少しの間うろたえる。きょろきょろしている土井の返事がないことには構わず、おばちゃんは笹の葉をかぶせた笊を片手にずんずん土間へ入って来て、やっとおばちゃんを視界にとらえた土井が挨拶する間もなく上がり框にどっかり腰を下ろした。
「これ綸子だわね。まあまあまあ、きれいな染めだこと。こっちは金紗? 唐渡りの品かしら? あらあ、びろうどまであるじゃないの。半助あんた、きりちゃんや子供たちに先生先生って呼ばれてるけど、もしかしてお針のお師匠さんだったの?」
 床いっぱいに広げられた色とりどりの上等な布また布を見回すおばちゃんの目が、軽口を叩きながら少女のようにきらきらと輝いている。独り身の男の住まいには不似合い甚だしい華やかな色彩の波間で黙々と針を動かしていた土井は、瞼を押さえてしょぼつく目をなだめながら、力なく愛想笑いをした。
「違いますよ。きり丸が引き受けた内職の手伝いです。……あー、いつの間にかこんなに日が高い」
「手伝い、ねえ」

 いつぞや盗まれた挙句に取り返しそこねて炭にしてしまったおばちゃんの小袖の代わりに、一から新しいものを縫い上げた土井の裁縫の腕を、きり丸は抜け目なく宣伝していたらしい。10日ほど前に突然高級な布帛の数々が自宅に届き、何事かと驚いているうちに、等身大の人形(ひとがた)まで追加で送られて来た。
 ほくほく顔で運送業者を案内して来たきり丸を問い詰めると、「晴れ着を一揃い仕立ててほしい」という、匿名のご婦人の飛び込み依頼があったのだと言う。急ぎの品だと納期を指定された上に前払いで報酬を受け取ってしまい、土井が状況を把握した時には既に断れない状況が出来上がっていたのだから念が入っている。
 おかげでここしばらく、日の出から日の入りまで明るい間は(夜なべ仕事は油代がかさむときり丸が渋るので)ちくちくと縫い物三昧だ。
 隅にのけた炭櫃の代わりに部屋の真ん中を陣取る人形が着ている、珍しい意匠の着物をためつすがめつ眺めながら、おばちゃんはふうんと感心した。
「唐舞の装束か何かかしらね。小袖とはだいぶ違うでしょうに、よく縫ったもんだわ」
「この人形にぴったり合うようにって、細かい注釈付きの型紙も添えてあったもので。おかげで運針が上達しましたよ」
「織姫様にお願いするまでもないわねえ。当のきりちゃんは?」
「新聞配達と犬の散歩とあさり売りのあと、田んぼの草取りに行きました。天気が良いから、ちゃんと日除けの笠をかぶっているといいんですけど」
 しれっと土井が言うと、おばちゃんは持ち上げた袖の影でくすくす笑い、それじゃ今日の夕飯は素麺とあめんぼねと不穏な予想をした。
「あめんぼは嫌だなあ。あれ、口の中でもそもそするんですよね」
「もう食べてるの。やーね、冗談で言ったのに。お祀りの日くらいもう少し良いもの食べなさいよ」
「いやぁ。贅沢をするときり丸が怒るもので」
 仰け反るような額の前金は実は手付け金で、引き渡しの時にはまた別に報酬が受け取れ、出来が良ければ更に色を付けて貰えるのだと、きり丸は目をぴかぴかさせていた。
 布地の色合いと人形の体形からして若い女性であるらしい依頼人がどんな「おひいさま」なのか想像もつかないが、きり丸を当分の間勉強に専念させる為に十分な稼ぎになるのだけは間違いない。そう考えて、丸投げは承知で"手伝う"ことにしたけれど、懐が暖かいからと言ってきり丸が散財を許してくれる訳ではないのだ。別に、きり丸に許可を貰う立場でもないのだが。
 頭を掻き掻き土井が弁解すると、おばちゃんは横座りの膝に載せていた笊をとんと床の上の隙間に置いた。
「そう言うだろうと思った。はい、お裾分け」
「え、ありがとうございます。何ですか?」
「鮎の生干しよ。いい大人と育ち盛りの子供が、行事ものだからって素麺だけじゃ物足りないでしょ」
「ああ、どうもすみません。ご馳走様です」
「いいのいいの、もともと貰い物なんだから。この端切れはお客さんに返しちゃうの?」
「一尺四方に欠ける分はこっちで処分していいって言われてます」
 土井がそう言った途端におばちゃんの目がひときわ輝きを増す。
 着物を仕立てるには勿論足らないが、ちょっとした袋物や小物を作るには端切れでも十分だ。きり丸がそれを巧いこと活用してもう一儲けしようと企んでいるのは確実だけれど、何くれとなく世話になっているおばちゃんに分けるくらいなら、さすがにぶう垂れはしないだろう。

 しかし一度は受けてしまったからには、きり丸のやつ、今後も針仕事の内職を取って来るかもしれない。いい折だし、今夜は織姫様に御加護を願っておくべきかな?

 そんなことを考えながら土井はしゅっと玉結びを作り、糸を切って裾周りのまつり縫いを仕上げた。
「やれやれ、どうにか仕舞いだ。――どんなもんでしょうね?」
「どれ。拝見しましょ」
 おばちゃんの厳しい目に着物の検分を任せ、土井が一息ついていると、通りの出入口の方から足音と一緒に元気な声が駆け込んで来た。
「せんせーただいまあ、おばちゃんこんにちはぁ。晩ごはんのおかずにタニシ取って来ました!」
「お帰り、きり丸。……タニシだったか」
 脱いだ草鞋を右手に、タニシの入った籠を左手にぶら下げ、手足も顔も泥だらけにしてきり丸は上機嫌だ。あめんぼよりはいいかと諦め混じりの苦笑を噛み殺しつつ、土井は中庭の方を指す。
「部屋に上がる前に井戸で泥を流して来なさい。着物がやっと出来たところなんだ」
「はあーい……あ、ホントだ、綺麗! さっすが先生! そうだ、運送屋さんが丁度見えてます」
「毎度どーもー、ロイヤルカササギ空輸でース。お荷物の引き取りに伺いましたヨー」
 きり丸が振り返るのと同時に、出入口の暖簾を分けて、白・黒・濃青の制服を着た見覚えのある運送業者がひょいと顔を出した。
「うわあ、たった今作業が終わったばかりで梱包も何も……申し訳ない。すぐ包みます」
「いえいえそのままでどーぞ、人形ごとお預かりしまス」
 慌てる土井ににっこり笑いかけて、運送業者がぱちんと指を鳴らす。
 すると、制服は元より顔形も何となく似通った男たちがどこからともなくぞろぞろ現れ、家の中から通りへ向かって長い列を作るや、人形も広げっぱなしの反物も前から後ろへ次々と受け渡し始める。よく訓練された忍者隊さながらの一糸乱れぬ行動に土井が呆気に取られている間に、裁ち落としや糸くずだけを残して、床の上はたちまちがらんと片付いた。
「はいこちら送り状控え。こっちはお約束の後金。お受け取りのサインお願いしますヨ」
「は……はあ」
 鼻先に突き出された書状にぽかんとしたまま土井が署名すると、ずっしり重そうな袋をきり丸に手渡しながら、運送業者はもう一度人懐っこい笑みを浮かべた。
「"色付き"があったら明日以降のお届けになるけど、じゅーぶん期待していいですヨ。大変良い出来でス」
 それではまたのご利用をお待ちしておりまスと軽やかに一礼して、あっという間に姿を消す。ややあって我に返った土井が土間に降りて通りを覗いてみると、その時には既に、後塵すら残っていなかった。

 濃い紅色の羅紗を床から拾い上げたおばちゃんが首を傾げる。
「今の人、おかしな訛りだけど、どこの人なのかしら。空輸ってどうやるの?」
「――空でも飛ぶんじゃないですかね」
「あらやだ、これ襟飾りにぴったりだわぁ。ねえ、この端切れ頂いちゃってもいいかしら?」
「先生、ありがとうございましたっ」
 白日夢でも見たような心地で首を振る土井の背中にきり丸が勢い良く飛びつき、次の学期の授業料がもう間に合っちゃったと、嬉しそうに呟く。おかげで明日からは心置きなく小遣い稼ぎに専念できます!
「……そう来るか。いや、そうなるよなぁ」
 新しい足跡が見当たらない通りから目を離した土井は、きり丸の元結に引っかかっていた小さな羽毛をつまんで、ついでに頭の天辺をぽこんと叩いた。