「座標軸」
「ご指名入りました」とふざけた言葉を残して姿を消した三郎が戻って来たのは、十日間の任務の予定よりも少し早い、九日目の夜明け前だった。
長屋の自室に戻るなり布団の中に潜り込んで、それっきり出て来ない。
その日の授業が終わってから雷蔵が様子を見に戻った時も、部屋の真ん中の布団虫は、授業へ行く前に見たのと同じ形のまま転がっていた。
「三郎?」
姿勢どころか位置さえも変わっていないその光景にやや驚き、開けた戸に手を掛けたまま思わず声を大きくする。
返事はない。
しかし人の気配はある。
あるが、心なしか、朝よりも夜着の嵩が減っているような気がする。……あれ、中身は入っているんだろうか。
しんとして動かない"丸まり"を戸口に立って見詰めながら、雷蔵は夜着をひっぺがしてみようかどうしようか、しばし悩んだ。
目を覚ますと隣にいた頭まですっぽりと白い夜着にくるまって丸くなっている三郎を見て、雷蔵は街道沿いの茶店の店先で蒸している特大の饅頭を連想したが、三郎が帰ったと聞いて覗きに来た八左ヱ門は生物委員らしく「でっけえ芋虫」と身も蓋もない感想を言った。
「でなきゃ、喧嘩に負けて帰って来た猫だ」
「そう言えば猫ってまん丸くなって寝るな。でも、それはひどい」
「饅頭ってのも大概だぞ。夜着が皮で三郎が餡なのか」
「花びら餅でもいいけど。……自分で言っておいてなんだけど、美味しくなさそうだな」
「小豆の振りをした空豆が入ってて、食うとうぐいす豆の味がするんだ、きっと」
その人間大の菓子もしくは芋虫または猫は、雷蔵と八左ヱ門が自分を挟んで言いたい放題に会話をしているというのに、こそりとも動かない。疲れ切って眠り込んでいるにしてもこれじゃ息苦しいだろうと、夜着を少しめくって顔を出してやろうとすると、裾をずるずる身体の下へ引き込んで「いま素顔だからやだ」と妙にはっきりした声で拒否された。
反応らしい反応を見せたのはそれだけで、あとはまた黙念としている。
雷蔵と八左ヱ門は顔を見合わせ、どちらからともなく頷き合い、自分たちは授業に行ってくると声を掛けてその場を離れたのが始業前のことだ。
学園に来た協力要請を受けて三郎が遣られたのがどこなのか、そもそも要請をして来たのが誰なのかも雷蔵は知らない。変装名人の三郎が特に指名されたことには意味があるのだろうが、その詳細は知りようがないし、仕事の中身を詮索しないのが忍者の不文律でもある。
それはひよっこにも満たない忍者のたまごでも、どんなに仲の良い友人同士でも、決して犯せない決まり事だ。
しかし現状、三郎は夜着に篭もりっきりで話をするどころではない。そればかりか、無事な顔さえ未だ見ていない。
帰陣早々の三郎を診察した新野からは「目につくような怪我はないが、だいぶ疲労している」と聞いている。ゆっくり休ませてやりなさいと言い付かってはいる、のだが。
何となく足音を忍ばせて、膨らんだ夜着に近付く。
端をつまんで引っ張ってみようとすると、布団虫は前進を再開しようとするダンゴムシのようにもぞもぞとうごめきだし、夜着に触れている雷蔵の指をのったり払い落として再び丸まった。
とりあえず、中身は生きているようだ。
「三郎」
「……なに」
いくらかホッとしつつ傍らに膝を突いてもう一度呼ぶと、少し間が空いてから、くぐもった声がぼそっと答えた。
人が入れ替わってもいなかった。嗄れてかさついているが、確かに三郎の声だ。
「変な心配させるなよ……ごめん、起こしちゃったか」
「……、いや、ぼんやりしてたけど、起きてた。……もう夕方?」
「もう放課後。今から起きる?」
「んー……。だるい」
眠っていないと言いながら半分がた意識が落ちているような受け答えの鈍さに苦笑して、雷蔵は手にしていた帳面でトンと夜着を小突いた。
「無理することないよ。いいから休んでろ。――って言ったそばから悪いけど、これ、板書の写し。今日の授業の分」
三郎がいない間の教科の授業は八左ヱ門と半分ずつ写して、私が書いたのは、そこの三郎の机の上に置いておいたよ。八左ヱ門もあとで見舞いがてら持って来るって。それと先生が、今日は免除するけど明日は出席するようにと仰ってた。今やっている単元までが次の試験の範囲なんだってさ。
そうだ、三人一班で浸透作戦の試案を立てる課題も出てるんだった。
提出は来月の初め。三郎がいない間に勝手に役割を決めちゃって悪いけど、地形調査を頼むよ。地図から現地の状況を割り出すの、三郎は得意だろ。
頼りにしてるよ。
実技の前半は登攀訓練で、後半は火縄銃の遠射だったんだ。火縄銃のほうは最後に小試験があって、自主練習をしてからでいいから、三郎もあとで受けるようにって。実は成績の配点が大きいんじゃないかって、みんな噂してる。授業の時に貰った要点をまとめた紙、三郎の分も確保しておいたんだけど……、あれ、どこにやったんだっけ。あれ重要なんだ。すぐ探すから、ごめん。
雷蔵のひとり語りの間も三郎は黙っている。
しかし、ふとした拍子に小さく動く夜着とほのかな息遣いの気配で、目を覚ましているのは分かる。
立ち上がりかけていた雷蔵はすとんと腰を落とし、首をすくめた。
「喋り過ぎた? うるさかったかな」
「ん、や、雷蔵の声だなー……と思って、聞き入ってた」
「はは、なんだそれ。ほんの十日足らず聞かなかっただけだろう」
「十日……あーあ。授業に追い付くの、大変そうだな」
「三郎ならなんとかなる。大丈夫だよ」
「うわ、他人事だからって大雑把」
「手伝うって」
「なあ、雷蔵。私はさ」
「うん」
「私は、」
頭があると思われる辺りに顔を寄せてひよひよと力の入らない声を聞き取ろうとしたが、そこから先の言葉が聞こえない。
その代わり「くう」と微かな音がした。
それが小さな生き物の鳴き声に聞こえて、子犬か子猫でも湯たんぽ代わりに引っ張り込んでいるのかと一瞬考えたが、そう言えば部屋には水差しのひとつもない。今は素顔だという三郎がそれを人目に晒す真似をする訳がなく、となれば少なくとも朝から水も食べ物も口にしていないはずで、泥沼の底のナマズのような有様の本人がそうと自覚できているかどうかはともかく、腹はぺこぺこに空いているはずだ。
「すまない、うっかりしてた。食堂で雑炊を作って貰って来ようか。それともお粥のほうがいいかな」
「……食欲ない」
「無くても、少しは何か腹に入れておかなくちゃ駄目だ。夜中にかじられるのはごめんだよ」
軽く叱って、肩らしい角のある膨らみをぽんぽんと叩く。布越しに手のひらに触れた体温は、なるほど蒸籠の中の熱々の饅頭ではなく、こんこんと眠る猫の柔らかな温みに似ている。
丸まっている三郎を指して「猫」と言った八左ヱ門はそのあと、教室へ向かって歩きながら、こんなことも言った。――喧嘩やらなにやらで限界まで消耗した動物って、ああやって巣に篭ってできるだけ動かないで、体力の回復を図るもんだけどさ。
出先でよっぽどな目に遭ったのかな、三郎のやつ。
何があったんだろうな。聞かないし、聞けないし、あいつのことだから喋らないだろうけど。
「白湯も持って来る。ついでに他に何かして欲しいことはあるか? 今なら大抵のことは聞いてあげるから、言っておけよ」
冗談交じりにそう促すと、一呼吸ほどの間をおいて、聞き取りづらい鼻声がぽつりと言った。
「俺の名前を呼んで欲しい」
囁く声の低く沈み込んだ語尾はひび割れ、そして、わずかに震えていた。