「おひとついかが」
水を切って篭に伏せた皿や鉢に埃よけの布巾を掛け、風通しのいい棚の上へ載せて、さて、と調理台に向き直った。
まな板の上にはお握りが並んでいる。
いつ誰が手を付けるか分からないし、虫除けに笊か何かをかぶせておいたほうがいいだろうか。
力作を前に仙蔵は思案する。
長屋の一隅に設えられた生徒用の厨房だ。夕餉時どころか消灯時間もとうに過ぎ、たった今後片付けを終えた食事当番の仙蔵の他には人気(ひとけ)も、火の気もない。
竈の火はともかく、人気がないのは今に限った話ではない。あいつは山三つ向こうの村へ書簡を届けに、あいつらは明日の研究発表の資料作りに、あの班は夜間戦闘の実技試験に、と今晩の六年は組の面々は何かと忙しく、夕食の席は閑散としたものだった。
お陰で人数分準備した食事はほとんど残ってしまった。しかし明日の朝になれば朝食当番が厨房へ立つのだから、数に限りのある食器や鍋釜を塞ぎっぱなしにしておくわけにはいかない。
とりあえず、余った惣菜とご飯でお握りをこしらえた。
供する相手に心当たりはない。が、夕食を食いはぐれた誰かが空きっ腹を抱えて厨房を覗きに来た時、そこにお握りがあれば勝手に取って行くだろう。規定の献立とは言え、せっかく腕をふるったのに、全くどいつもこいつも。
腕組みしたまま我知らずまな板を睨んでいたその時、月明かりを遮って、厨房の出入口に人影が現れた。
調理台に置いた灯火に浮かび上がる仙蔵の姿に、気軽そうに中へ入りかけた足がぴたりと止まる。
「ギンバイか、文次郎」
「あ、なんだ仙蔵か。何やってんだ、こんな時分に」
「残り物の片付けに時間がかかったんだ。夕食をすっぽかしたやつが多くてな」
顔を下からぼおっと照らされながら横目をする仙蔵に、文次郎はやや怯んで体を引く。
放課後からずっと会計委員会の作業部屋に詰めっぱなしだった文次郎もそのひとりだ。今月の収支が何度計算してもぴったり合わず、全学級と全委員会の帳簿や予算申請書の類を血眼になって見直している最中で、一向に終わりが見えない。
そんな事情を仙蔵は鑑みない。横目の上に三白眼をして芝居がかった低い声を出す。
「誰とは言わんが、どこぞの鍛錬バカに付き合わされる下級生は気の毒だな。腹ぺこな上、休みもなしにぶっ通しで、鬼の委員長と膝詰めとはな。誰とは言わんが」
「……田村たちは休憩をとらせてる。俺は夜食の調達に来たんだ」
「お、そうか。お前にしては賢明だ」
急に機嫌が良くなった仙蔵は勢い込んで頷き、湯冷ましがいっぱい残っているから持って行けと、調理台の隅に寄せてあった大振りの土瓶に手を伸ばした。その間にきょろきょろと辺りを見回した文次郎は、きれいに片付いた調理台や洗って伏せてあるお櫃(ひつ)に目を留めて、ちょっと瞬きする。
「なあ。米は残ってないか」
土瓶を抱えて振り返った仙蔵が、珍しくきょとんとした。
「米?」
「碗に一杯分でもあればありがたいんだが」
「一杯分?」
「その湯冷ましを差して水漬けに――なんだその顔」
「そんなけち臭いことを言わなくても、目の前に握り飯があるだろう」
「目の前だ? そんなもん、どこに」
土瓶の口で仙蔵が指したまな板を振り返り、その上に置かれていたものの正体に初めて気が付いた文次郎は、思わず絶句した。
でかい。
丸い。
黒い――いや、灯りが暗くてそう見えるだけで、これはぴったり巻いた赤紫蘇の色か。
自分の両手を並べた幅とお握りの大きさを比べ、もう一度唖然とする。
一年生がこれを持ち上げたら、顔がすっぽりその向こうに隠れてしまうに違いない。一体どれだけぎゅうぎゅうと握ってあるのか、この真ん丸い形がよくも自重で崩れないものだ。このまま人に投げつけたら立派に鈍器になりそうだ。
呆れる文次郎の横からひょいと顔を出し、仙蔵はどこかしら浮き浮きした様子でお握りを指差す。
「峠の茶店で、旅人向けにこんな感じの握り飯を売っているのを見たことがあってな。真似をしてみた。普通の飯じゃなくて加薬飯だから、茶店のものより豪華だ」
腰に提げたり荷に包んで持ち歩くためのそれは、いくらなんでもこれ程でかくはないだろうが。
「中まで全部米なのか、これ」
「いや。おかずも沢山余ったから全部詰め込んだ。具沢山だぞぉ」
人参と牛蒡の煮染めとか炒り豆腐とか焼き魚とか、瓜の味噌漬けとか、と指折り数える仙蔵は得意気だ。
「限度があるだろ。いや、食えば旨いんだろうけど、切り分けないと食えないだろ」
「それでは面白くないじゃないか。こういう握り飯は、かじると何が飛び出すか分からないから"ばくだんおにぎり"と言うらしいぞ」
「食い物で遊ぶんじゃない――おい待て、ま」
ためつすがめつ巨大なお握りを眺め回し、ひとつでも五人分には多過ぎると文次郎が考えているのをよそに、仙蔵は親切にも五枚の皿にひとつずつ取り始める。
慌ててそれを止めようとして、文次郎ははたと手を止めた。
仙蔵が作ったかやく飯の爆弾お握り。
加薬飯にも、冗談めかした名称にも罪はない。けれど。
「……言葉の暴力だ」
「何を訳の分からないことを言ってる。ほら、早く持って行ってやれ――なんだその顔」
鼻先へ突き出された皿に、ころんと丸いモノが乗っている。
硝煙のにおいはしない。
しかし文次郎は、空腹とは違う理由で自分の胃が鳴く声を確かに聞いた。