「紅要らずの化粧筆」
「なんなのよ、もう!」
突然の怒声と共に金気がひゅうと鼻先を掠め、乱太郎は反射的に両手を高く上げてその場に立ち竦んだ。
一体いつ腰から抜いたのか、すれ違いざまに抜刀したトモミの刀の切っ先は、乱太郎の目と目の間をピタリと指して静止している。踏み出せば突かれ退けば斬られる絶妙の間合いに身じろぎひとつ出来ず、腕を差し上げたまま乱太郎は硬直した。
「あのお、何か」
「何か、はこっちの台詞だわ」
恐る恐る言いかけた乱太郎をトモミは切り口上に遮り、鋭く手首を返す。秋晴れの爽やかな日差しを受けた刃がぎらりと光り、乱太郎の全身からどっと汗が噴き出した。助けを求めて周囲に目を泳がせるが、ついさっきまでぞろぞろと校庭を行き交っていた生徒たちは、今に限って誰の姿も見えない。不運小僧の面目躍如だ。いや嬉しくない、嬉しくないぞ。
「どうしてみんな、私のことをジロジロ見るのよ。なによ私ってそんなに魅力的!?」
視線で射殺すつもりかと思うような目付きでトモミが凄む。
「いや、そうじゃなくて」
「なんですってぇ?」
「あああ、そうじゃなくてえ!」
何を言っても地雷を踏む気がして、乱太郎は目で必死に"それ"を指した。
「あの、それ、可愛い髪飾りだなーって思って目が行ったんだ」
「嘘おっしゃい。髪飾りなんて付けてないわ」
「うん、だから、近くで見たら違った」
不審いっぱいの顔で乱太郎を睨みながらトモミは片手を柄から離し、頭巾を外している頭に滑らせる。そして指先が"それ"に触れると、ふと表情から険が抜けた。
「――やぁね。いつから引っ掛かってたのかしら」
髪を結う紙縒りに、見事な丹色に染まった紅葉の小さなひと枝。
「前の授業が裏のモミジ丘で居合の稽古だったのよ。誰か教えてくれればいいのに」
さり気なく刀を鞘に戻し、それでも流石にいくらか決まり悪そうに、トモミが口を尖らせる。
やっとのことで金縛りが解けた乱太郎はやれやれと額の汗を袖で拭った。ついでに眼鏡も外して袂で拭き、目をしばしばさせながら、軽い口調で言う。
「トモミちゃんがお洒落で付けてると思ったんだよ。それ、似合ってるもの」
「似合ってる?」
可愛い髪飾りだと思ってたものが、私に、とトモミは目をぱちくりさせた。一瞬後、その頬にさっと朱が走る。
「……乱太郎って、」
「え? ――わぶッ!」
紙縒りから引き抜いた小枝を乱太郎の顔に叩き付け、トモミは物も言わずに駆け去ってしまった。
気がつくと、人通りが戻って来ている。
さざめき歩く声が耳に入って我に返り、乱太郎はむむむと唸った。眼鏡をかけ直し、胸元に落ちかかって止まっていた小枝を摘み上げ、しげしげと眺めて考える。
枝をぶつけられた鼻がヒリヒリする。葉っぱの端っこが目に入ってちょっと痛い。なんでトモミちゃんは怒るのさ? 何がなんだか分からないけど、理不尽だってことは分かる!
「乱太郎ってば、」
「わあ! いたの伏木蔵、と三反田先輩」
「ちょうど今、通りかかったところだよ。鼻のあたまが赤くなっちゃったね。大丈夫かい」
薬草摘みに行く途中なんだと、ざるを抱えた数馬がおっとりと微笑む。
声をかけてきた伏木蔵は、口元に指を当てて言葉を探すふうにしていたが、やがてその指が天啓を得たとばかりにピッと天を向いた。思わせ振りな仕草にきょとんとする乱太郎へ、厳かに告げる。
「……すごいスリルとサスペンスぅ~」
「え、ちょっと待って、私のこの状況ってスリルでサスペンスなの」
ねえ先輩そうなんですかと慌てて振り仰いだ数馬は、おっとりと微笑んでいる。