「浮かれきさらぎ梅見月」
今のところ、天気はいい。
忍たま長屋の廊下を歩きながら、土井は青く晴れ渡った空を見上げた。
今日はここ数日の厳しい寒さが少し和らぎ、風もなく穏やかだ。空を見回しても、寝ぼけたような白い雲がぽつりぽつりと浮かんでいるくらいで、暴風雨や大吹雪が来る気配はない。
生徒たちの部屋を回って掃除の点検をしていた土井は、首をひねりつつ次の部屋の引き戸を開けようとして、手を止めた。
廊下の角の向こうからぱたぱたと軽い足音が近付いて来る。
それに気がついた土井は曲がり角の手前で足を止め、ほとんど間をおかず飛び出してきた井桁模様の制服を正面から捕まえた。
「うひゃっ?」
突然柔らかい壁に突き当たった乱太郎が、ひと声上げて立ち止まる。
抱えていた桶に咄嗟に手で蓋をしたが、それでも勢い余って少しこぼれた中身がからからと音を立てて廊下に転がる。それを横目で追いながら顔を上げた乱太郎は、自分を通せんぼしている土井を見とめて、「なんだ先生か」とふにゃっと表情を崩した。
上を向いた額を手のひらでポンと叩き、土井は苦笑交じりに小言を言う。
「何度も言っているけど、廊下を走るんじゃない。慌てる子供は廊下で転ぶぞ」
「はあい。ごめんなさい」
「返事だけはいつもいいんだよなぁ。その桶は豆撒き用の豆か? ずいぶん量があるな」
鬼に扮した生徒や教師が各委員会や教室、長屋の部屋を回り、皆で豆を撒いてそれを追い払う追儺(ついな)は、宮中ではさぞ厳かに執り行われる儀式なのだろうが、忍術学園ではちょっとした楽しい季節行事だ。
「医務室に撒く分を作法委員会で貰って来たんです。兵太夫が、保健にはサービスだって大盛りにしてくれました」
桶を傾けさらさらと耳に心地良い音を鳴らして、うちの不運の鬼は筋金入りだからそれで祓えるほどやわじゃないですけど、と乱太郎が苦笑いする。
「でも、心遣いはありがたいです。しんべヱと喜三太も、用具委員会で"アシカが痔"を作るからあとで持って来てくれるって――」
「待て待て待て。なんだそれは」
「あれ、違いましたっけ。"焼いた菓子"だっけ?」
「痔のアシカよりは貰って嬉しいな。それでも訳は分からんが」
「それってヤイカガシでしょ?」
鰯の頭を柊の小枝に刺した、門や戸口の上に飾る魔除けのことだよ。
庭先から別の声がして二人がそっちを見ると、庄左ヱ門がい組の彦四郎と一緒に大きな布や蓑を抱えて通りがかったところだった。その後ろから歩いて来た勘右衛門は、杵のような形の大きな棒を左の肩に担ぎ、右手には串に刺した焼魚を何本かまとめて持っている。
「みんなで渓流釣りでもして来たんですか?」
おいしそうだが場違いな焼魚を見て乱太郎が尋ねると、勘右衛門は笑って首を振った。
「用具委員会に貰ったんだよ。兵庫水軍が鰯を提供してくれて、焼嗅(やいかがし)に使う頭をせっせと外してるんだけど、身の方はみんなに御振舞いだって」
自分たちは焼き立てをご馳走になって来たからこれは留守番の三郎の分、と言って持ち上げた串刺しの鰯には、なるほど頭がない。
「厨房じゃなくて、外で焼いてるのか」
「量が多いし脂が乗ってて煙がすごいから、地面の上に熱い灰を広げてその上に鰯を並べて、団扇で扇いで炙ってるんです。食満先輩が"燻製になりそうだ"ってぼやいてました」
「へえ。考えたなあ」
彦四郎の説明に感心した土井は、何となく目を逸らしている勘右衛門に視線を移して、「時に」と口調を変えた。
「三郎は今頃、部屋で気合を入れて変装中か?」
「ははははは」
金棒を模した棒を身体の後ろに隠し、勘右衛門がわざとらしい笑い声を上げる。丸めた衣装を手分けして抱えていた庄左ヱ門と彦四郎も慌てて後ろ手に持ち替え、そろそろと後退りする。
「あまり凝り過ぎてまた下級生を泣かせたら、今度こそ学園長先生と膝詰めでお説教だと伝えておけ」
「はぁーいっ」
低く釘を刺す土井に声を揃えていい返事をして、三人はぴゅうっと逃げ出した。
「まったくもう。悪ふざけは一生懸命やるんだから」
「鬼役は学級委員長委員会なんだ……三郎先輩の本気の鬼の変装って、おっかなそうですね」
「怖いぞ」
それだけ言って遠くへ視線を飛ばし多くを語らない土井に、胸に桶を抱き締めて乱太郎が震え上がる。そのまましばらく空を眺めていた土井は、やがてぼそりと言った。
「……変だな。まだ天気がいい」
「天気予報だと今日は一日中晴れでしたよ。猫が顔でも洗ってました?」
「いや。今、きり丸が裏庭で自主的に弾き玉の練習をしているんだ」
授業が終わってすぐ妙に真面目な顔で山田の所へやって来たきり丸は、訝しがる実技担当担任に、弾き玉の練習を見てほしいと熱心に頼んだ。呆気に取られたのち感動の波に襲われた山田は二つ返事で引き受けたが、同じく呆気に取られた土井はまだ釈然としない。
実技の方も授業計画が右往左往しているから、予習なのか復習なのか分からない。どちらにしても、放課後はバイトか委員会か遊ぶことにばかり熱心なきり丸が、自分から忍術の稽古に励むなんて、
「あまりにも珍しいから、季節外れの大嵐の前触れじゃないかと思ってな」
「なーんだ。それなら大丈夫ですよ」
眉を寄せる土井の話を聞いた乱太郎はそう言ってにこっと笑うと、桶の中から豆を片手でさくりとすくい上げた。
「きり丸の図書委員会も、図書室で豆撒きをやるんですけど、」
本棚の下や部屋の隅に転がり込んだら掃除が面倒くさいし、いっぱいバラバラ撒くのはもったいないから、鬼役が回って来たら弾き玉で一撃必殺!
残った豆は粉に挽いてきなこ飴を作って売る!
だって庭に撒いたって鳩が食うだけだもん。もったいない!
「って言ってたから、今だけですよ。……あれ、今日は胃が痛くならないんですか」
「お前たちが一時でも熱心に勉強してくれるなら動機はもうなんでもいい」
重々しく言う土井に気まずそうに愛想笑いをして、乱太郎は唐突に「失礼しまーす」と会釈すると、土井を追い越して小走りに立ち去った。
だから走るなと言うのに。
向こう側の角を曲がるのを見送って溜息をついた土井が点検の続きに戻ろうと引き戸に手を伸ばした途端、乱太郎が向かった方角から、大小の悲鳴と細かいものがぶち撒けられて床を打つ音、人が転んだような大きい音が聞こえた。
すわ何事かと駆け出す間もなく、「三郎それはマズい洒落にならん」と叫ぶ勘右衛門の引きつった声が飛んで来る。
「……あぁ、まったく! 今日はいい天気だ」
喧騒を遠くに聞きながら呟き、もう一度小さく溜息をついて、土井はぱしんと一息に戸を引いた。