「晦日の月」


 冷たく冴えた空気を衝いて不意にどこかから聞こえた犬の遠鳴きが、長く尾を引いた後に、溶け込むように夜の静寂(しじま)に消えてゆく。
 月のない晦日の空は漆黒。
 それを補うように瞬く数多の星が、しらじらとした光を地上へ投げかける。
 さやかな明かりに浮かび上がる忍術学園の正門はぴたりと閉ざされ、師走最後の日の夜の底に、粛として佇んでいる。
 
「冬休みに入る少し前に、」
 部屋の外の物音にしばらく耳を澄ませていた山田が、低く語り出した。
 学園内の自室は常と同じに飾り気もなく、灯した火の柔らかな橙がほのかに辺りを染める他に、彩りらしいものはない。
「兵太夫と三治郎が中心になって、は組の皆で面白いからくりを作ってな。それがなかなか、よくできていた」
 その出来栄えを思い出したのかひとりでくつくつと笑い、左手の指がたたん、とととんと軽やかに床を叩く。
 対座する利吉は黙って片方の眉を上げる。
「上級生の長屋の廊下に仕掛けおって、四年生が引っかかったものだからちょいと揉めたのだが、それはまあ置いておこう。こう、人が歩くだろう」
 たん、とん、たん。
 床の上で右手と左手が交互に上下する。利吉はそれに目もくれず、口を結んだまま正面を見据えている。山田は気にも留めぬ様子で、問わず語りに話し続ける。
「そうすると、自然と一定の調子ができるもんだ。歩調というやつだな。その歩調が廊下のある地点からある地点まで一定の型を踏むと仕掛けが作動してぱーんっ」
「ああぁーっ!!」
 盤上で形勢不利を示していた将棋盤を素早く掴んだ山田が景気よく駒を飛ばして引っくり返すと、利吉がらしくもない高い悲鳴を上げた。
「――と、こう床板が跳ね上がって上の人間をふっ飛ばすのだ。いやあれは見ものだった。鶯張りではなく、さながらヤマアラシ張りとでも言おうか」
 はっはっはと棒読みで笑う父に、先の一局で勝利していた息子はぎりぎりと奥歯を噛み締める。
「ずるい! ひどい! 大人げないっ」
「何を言うか。お前だって碁の十局めにやったろうが!」
 大声を上げて抗議する利吉に山田が言い放つ。しかし利吉は「そんな昔の話は忘れました」とぷいと横を向き、散らばった駒を拾い集めながら、わざとらしく嘆息した。
「はーあ。どうしてこんな事してるんだろう。そんな暇なんかないのに」
「こっちの台詞だ」
 裏返った重い将棋盤を元に戻し、山田が渋い顔をする。聞かぬふり見ぬふりで利吉が続ける。
「父上が今年の冬休みは家に帰れるとおっしゃっていたから、年明け早々の仕事を入れたのに。荷を置かせてもらいに学園へ来てみれば父上がいるなんて」
「晦日の前から松の内までは体が空くと先に言ったのはお前だろう。だから休み中の宿直を引き受けたのに、まさか今日になってのこのこやって来るとは」
 売り言葉に買い言葉だ。将棋盤を挟んで忍者の父子がはたと睨み合う。
 そのまま暫し。
 先に我慢が切れたのは利吉だった。
「仕事中毒!」
「鏡を見ろ!」
「当番ではない宿直を断れないなんて、父上も気弱くなられたものですね」
「忍術学園はお前の物置ではないぞ。己の仕事道具を持て余すとは情けない」
「頼まれごとをすべて引き受けるのは度量が大きいとは申しません。優柔不断と言うんですよ」
「フリーの売れっ子とフリーターの安売りは違うのは分かっているか」
 言い合うたびに言葉がより棘を増し、毒のあるその棘にちくちくと刺されて、よく見れば似ている顔は同じように険しく強張っていく。
 と、山田が大きくひとつ息をついた。まるで季節外れの蚊のようにそこら中に漂う目に見えないトゲトゲを、パチンと手を合わせて叩き潰す。
「待て。一旦落ち着こう。人格攻撃になるのはまずい」
「……そうですね。これでは禍根が残る。やめましょう」
 肩の力を抜いた利吉が、そのまま床に両手をついてがっくり肩を落とす。
 お互いに相手が年末は山奥の家へ帰省すると思っていて、それなら自分は帰らなくてもいいだろうと考えた。
 たぶん、そこからして間違っている。間違っているが、だって忍者だ先生だ。仕方ないじゃないか!
 そんな言い訳には微笑と槍鉄砲を以て応じるのが、山田家の妻であり母である元くの一だ。雪かき、大掃除、年末の買い出し、正月準備とあれこれひとりで片付け、帰らぬ夫と息子を思って今頃はどれだけ機嫌を悪くしていることか。
 このうえ年越しも付き合うのは飼い猫だけと決まったら――言えるのはただ一言、「南無三」。
「母上は父上の妻でしょう。何とか収めてくださいよ」
「母さんはお前の母さんだろ。どうにか宥めてくれよ」
「……無理ですよ」
「……無理だよ」
 どちらかひとりだけでも今から駆けつけて、せめて初日の出は一緒に拝もう。
 いるはずのない場所でいるはずのない相手に出くわし散々に角を突き合わせた後、少し冷静になってそうと決め、ではどちらが行くのかでまた一悶着あって、結局、碁の勝負で先に二回続けて勝ったほうが残ることになった。
 それが今日の昼前の話だ。
 絶対に負けられない戦いに、正々堂々とか公正とかいう言葉ははなから天井の上へ放り投げられた。妨害御免、イカサマ上等の泥仕合で一進一退を繰り返すうちに対局自体が成立しなくなり、勝負は碁から盤双六、更に将棋に代わって、すっかり夜も更けた現時点で通算二十勝二十敗十七引き分けの完全ドローだ。
 長時間張り詰めっぱなしの緊張感と勝負疲れで憔悴した山田が、しょぼつく目を押さえて呻く。
「日が変わるまで、あとどれくらいだ?」
「さあ……、どこかで鐘、鳴ってますか?」
 湯呑みに注いだ白湯をすすりつつ、しゃがれた声で利吉が言う。怒鳴り過ぎ、叫び過ぎ、火鉢で乾いた部屋の空気に長く当たり過ぎ、すっかり喉が涸れてしまった。
「父上、思うんですけど、もう今からここを発っても、日の出までに……うちに着かないんじゃないかなあ……」
「着かない……かもしれんなあ」
 だからと言ってここで勝負を放棄したら、後々恐ろしいことになるのは骨身にしみて分かっている。
 海面へ顔を出した鯨のように大きな溜め息を、二人揃って吐き出した。
「あーあ……。父上と私がここに揃っているんだから、いっそのこと母上も山を下りて、ここへいらしてくれれば簡単なのに」
「やめんか。本当になったらどうする」

 向こう側でしっかり閂が下りているらしい門は、押しても引いてもびくともしない。
 門脇の潜り戸を叩いて訪いを乞うてみても、答える声はない。
 どうしましょう。塀を越えようか、それとも大きな声で呼んでみようかしら。「ごめんください」? 「こんばんは」? 「頼もう」がいいかしら?
 懐炉代わりにはるばる抱いてきた猫が、門を見上げて思案する腕の中で小さくあくびをした。