「一方、その頃」
空の高いところでひゅるひゅると風が鳴っている。
昼を過ぎた頃から次第に曇り始めた空は、厚みを増しながら広がる雲がゆったりと重たげにたわんで、今では薄水色と薄灰色が折り重なっただんだら模様だ。ささやかな陽だまりに集うすずめはふわふわに羽をふくらませ、小さな鞠のようになった体を寄せ合って、冷たい風を物ともせず日向ぼっこを楽しんでいる。
寒くて穏やかな師走の午後。
あちらこちらで少しずつ事象のしっぽを重ねながら、忍術学園はいつもと変わらず騒がしい。
暑くて着ていられないと脱いだ上衣は腰に巻き付けて、上は肩も腕も剥き出しの黒い肩衣ひとつ。呼気と体温と頭に昇った血の熱さとで、まるで温泉に浸かった直後のように、全身から白い湯気がゆらゆら立ち昇る。
馬手(めて)に金槌、弓手(ゆんで)に釘を携え、寒風吹きっさらしの下級生長屋の屋根の上で留三郎は咆えた。
「あの馬鹿力はどこ行きやがった!」
そこからごく近い棟瓦には不機嫌な文次郎が腰を下ろしている。
すっかり葉が落ちた、と何気なく眺めていた遠くの欅(けやき)から目の前の怒れる留三郎に視線を戻し、面倒臭そうに口を開く。
「不審者を追いかけているそうだ」
「ふざっけんなよ、あの野郎!」
足を踏み鳴らそうとした留三郎は足元の惨状が目に入って寸前で思い止まり、ぐっと仁王立ちして、二度目の咆吼を上げる。
ふたりがいる屋根の中腹には、バレーボールに穿ち抜かれた大穴が瓦や板の破片を飛び散らかして、げらげら笑いの口を開けている。
小平太が突然駆け出しスパイクサーブを放った一部始終を目撃していた複数の証言によると、そこに屈んで辺りを窺う怪しい人影があったらしい。十分に明るい昼日中にこんな目立つ場所で身を縮めているとは随分と間抜けな不審者だが、ひとりではないように見えた、という怪情報まである。
「こちとら年明け前の大詰めできりきり舞いだってのに、余計な手間を増やしてくれやがって。てめえが壊したものはてめえで直せってんだ」
悪態をつきながら、しかし留三郎の手はするすると動く。ささくれだった野地板を剥がし、寸法を合わせて切り出した木材をそこへはめ込み、防腐剤の赤い塗料を塗って、板が歪まないよう慎重に釘やかすがいを打ち込む、その動作は荒い口調と裏腹に仔猫をくすぐるように丁寧だ。
「夜には雪が降るって話だ。この下は一年の部屋だし、屋根だけは後回しに出来ねぇだろ。――ところでお前、寒くねえのか」
「はん!」
鳥肌のひとつも浮いていない裸の腕を見て文次郎が呆れると、留三郎は塗料をたっぷり含ませた刷毛を片手に取りながら、思い切り鼻を鳴らした。
「寒がるなんて贅沢をしてる暇がねえよ。お前も曲者探しに行けばいい。もしかしたら因縁の相手と戦えるぜ」
「仕事中だ、馬鹿。こっちだってさっさと続きに戻りてぇんだ」
冬休みに入る前に、会計委員会には膨大な量の年末決算が待っている。
それに必要な各委員会からの報告書は既に受け取った。が、用具委員会が管轄する資材の数が大きく変動しそうだという情報が飛び込み、急遽計算作業を中断して、押っ取り刀で監査に出向いたのだ。
地上では補修に必要な木材や道具を整えている用具委員と、その後をついて歩いては目録と照合している会計委員が、各々の仕事をこなす合間に屋根の上の委員長たちに不安そうな視線を向けている。
「ぼさっとそこに居られちゃ邪魔くせえんだよ。気が散る」
「そうかよ、なら手伝ってやろうか。お前の非力な腕じゃ釘が打てねぇだろう」
突っかかる留三郎に挑発を込めて文次郎が言い返した瞬間、その顔めがけて一直線に刷毛が飛んだ。
文次郎はひょいと首を傾けてそれをかわし、脇にのけてあった破れ瓦を素早く掴んで投げ返す。
その瓦は抜く手も見せず一閃した指矩(さしがね)に叩かれて空中で砕け散る。
棟瓦からゆらりと立ち上がった文次郎が身構える。大穴の横に膝を突いていた留三郎は指矩を腰紐に突っ込んで両手を空け、同じくその場で立ち上がる。
折よくどこからか上空へ向けて打ち上げられた砲弾が、ぱあんと景気のいい音を立てて破裂した。
「あー」
「やっぱりこうなった……」
「馬の声がする」
「誰だよ、このタイミングで閃光弾撃ったの」
細くたなびく真っ白な煙と、ゆっくり落ちてくる眩しい光の下で火蓋を切った壮絶な取っ組み合いに、用具と会計の後輩たちがため息をつく。
その後ろを、眦(まなじり)を決した小松田が入門票を小脇に駆けて行く。
どん、と一度大きな音がしたかと思うと、天井の梁が不穏に軋みだした。
「賑やかだね」
ぱらぱら落ちてくる埃を顔で受けつつ乱太郎が呟く。
その周囲には、木っ端微塵に砕けたバレーボールの残骸と、今朝までは天井板と野地板だった木片と塵と埃が散らばっている。
「……ごめんね、きり丸。自分が不運小僧だなんて分かりきってたのに私が余計なことを言い出したりなんかしたばっかりに」
うちひしがれる乱太郎は大穴を仰いで佇んだまま動かない。部屋の中に吊るしてあった洗濯物の、目を覆うばかりの有様を嘆いていたきり丸は、慌てて明るい声を張り上げた。
「いや、考えてもみろよ、俺たちみんな留守にしてたのは相当運がいいぞ。天井まで貫通するようなボールが間違ってぶつかったら、風邪どころじゃない大怪我だもん」
「そうかもね。でも、たぶん、部屋にいたら私にボールが当たってたんだろうね。だって私、保健委員だしね」
「あー……」
「あ、どこかで楽しそうに鈴が鳴ってる音が聞こえる……うふふ」
「気をしっかり持て、乱太郎」
何を言っても慰めにならない予感にきり丸が唸る。
午後の授業は沼地歩行術の実技だった。
すっかり泥だらけになってしまった袴と足袋を急いで洗ったあと、「洗濯物を部屋干しすると空気が潤って風邪予防に効果的」という乱太郎の提案で、室内に紐を張って洗濯物を掛けていた。クリーニングのアルバイト経験豊富なきり丸にしてみれば、日差しは弱いが適度に風の吹く屋外でさっさと乾かしてしまいたいところだったが、風邪は万病の元! という保健委員の主張に押し負けたのだ。
そして、これだ。
撃ち込まれたバレーボールの直撃は免れたものの、天井裏に積もっていた塵や埃や破壊された木材の屑が降り注ぎ、せっかくきれいになった洗濯物はでろでろのどろどろだ。
上の方で何かが続けざまに壊れる音がして、地上の方から「ひえー」と悲鳴が上がる。
「洗い直せばいいだけじゃん。今からやれば明日の朝までには乾くって」
「……ただで二度働きさせてごめんね。最近はバイトのシマを荒らされて実入りが少ないってぼやいてたのに」
「それは言うな」
乱太郎を小突く真似をしたきり丸は伸び上がって紐から足袋を外し、中に入ったごみを払おうと逆さまに振った。
ごとん、と硬い音がした。
「ん?」
「こぜに!」
のろのろ動き出そうとしていた乱太郎が振り返るより早く、床に転がった小銭の束にきり丸が飛びついた。束と言っても小銭を通した紐の全長は三寸に欠ける程度だが、拾い上げてよく見ると、一枚一枚は質のいい良銭だ。
「なんでお金が足袋の中なんかに」
「きっとあの穴から曲者が落としていったんだ。らっきーっ! 乱太郎の提案のおかげだぜ、ありがとなっ」
思わぬ拾いものにはしゃぐきり丸にばんばんと背中を叩かれて、乱太郎は目を白黒させながら、やっと少しだけへにゃりと笑った。
教員長屋のある部屋の前を通り掛かった戸部は思わず身震いした。
部屋の主と同僚の誰かか、あるいは客人なのか、中にはふたりいるらしい。どちらかが喋っている低い声が微かに聞こえる。それではさっき不吉な言葉を吐いたのは、今は黙っている方か。
おかげで面倒臭いあいつを思い出してしまった。
そう言えばここしばらく姿を見ない。見なくて幸いだが、ひょっとするとこれは、今日あたり何くわぬ顔でひょっこり現れる予兆かも知れぬ。
「……ちょっと遠くまで出て来るかな」
冬休みの間の住居も探さねばならんしと誰にともなく言い訳しながら、戸部は足早にその場を離れる。
失礼しますと声が掛かって、かたかたと医務室の戸が開いた。
すり鉢で薬草を擂っていた数馬が顔を上げると、そこには丸い緑色のもさもさが立っている。
「ん?」
「あれ、数馬だけ? 預かり物のお届け物です」
緑の葉と細い枝がごちゃごちゃと絡まった頭よりも大きなひとかたまりの後ろから、藤内がひょいと顔を出す。
「桑寄生だ。どうしたの、これ」
「あー、医務室はあったかくていいなぁ。外で綾部先輩を探してたら、医務室に持って行ってあげてって不破先輩から預かったんだ。図書委員は雪が降る前に本の虫干しを終わらせなきゃいけなくて、手が離せないから頼むって」
お歳暮だってさ、と言った藤内は、なぜかそこでちょっと笑う。
「なにか面白いことがあったの?」
数馬が首をかしげると、藤内は両手でもさもさを弄びながら、数馬の前にある火鉢のそばへ行ってそこにちょこんと座った。
「先輩、かくかくしてた」
「かくかく?」
「二年の久作も。顔も固まってたし、寒くてこわばっちゃったのかな。からくり人形みたいになってたよ。それは何の薬?」
「打ち身の薬。ほら、今、外で――」
しい、と数馬が口の前に人差し指を立てる。
耳を澄ませるまでもなく、まるで掛け合いのような怒声の応酬とど突き合いの喧騒はここまで聞こえて来る。始まってからしばらく経つが、実力拮抗の屋根の上の諍いは未だ決着を見ないらしい。
「あの喧嘩が済んだら必要になるから今のうちに用意しておこうって、今はいらっしゃらないけど、伊作先輩がね」
「あれ。保健委員長も行方不明?」
「も、って何だよ。左近と一緒に落とし紙の補充に行っておられるんだ。……ちょっと帰りが遅いけど」
たぶんどこかで落とし穴に落ちるか補充用の紙をぶち撒けるかしちゃってるんだろうなぁと、なんでもないことのように数馬が言う。その不運な予想の一端に自分の先輩が加担している可能性が果てしなく高い藤内は、僕がごめんと言うのも変だよなぁと思いながら、寒さにかじかんだ手を火鉢にかざす。
水中の水草のように暖気に揺られる傍らのもさもさを眺めつつ、ふと尋ねた。
「そうきせい、って何に効くの」
「肝腎の養いによし、筋骨の健壮によし、膝腰の痛み――打撲じゃなくて関節痛だけど、それにもよし」
「へーえ。万能薬なんだ」
「あと、お腹に赤ちゃんがいる時の不調にも効く……、らしいよ」
「あは。それは僕らには必要ないや」
「孫兵ならマリーや小町にあげるかもねぇ」
暖かくのどかな医務室で三年は組のふたりはのんびりと笑い合う。
それに混ざろうとしたのか、五徳の上で薬湯を煮出している鍋が、分厚い木蓋を持ち上げてぷしゅうと湯気を吹いた。
深い林の中を小松田は走る。
緩やかに傾斜する地面を駆け上りながら、全方位へ向けて五感を研ぎ澄まし、――不意に頭をもたげた。
遠くに――微かに――しゃんらんしゃんらん、と金属が触れ合う音。
方角は丑寅。距離は不明。が、捉えた。
大きく右へ舵を切る。
行く手を阻むトラップの波状攻撃を物ともせず走力を上げ、全速前進、事務員はひた走る。
庄左ヱ門と彦四郎は先輩を見上げている。
一年生と五年生の身長差ではそれも致し方ない。しかし今日はいつも以上に仰向かないと全体像が視界に収まらないのが厄介だ。
なので、ふたりとも同じような顔つきで、同じような角度に精一杯顎を上げている。
が、思っていることはそれぞれ違う。庄左ヱ門は「一体どの位置で視界を確保しているんだろう」と推測を巡らせ、彦四郎は「これは被りものだろうか、素顔の上に肉付けしたんだろうか」としげしげ観察している。
青い制服姿の牛頭馬頭ならぬ鹿頭は、鹿にしては鼻先が随分ともったりした顔をもたげて、ふたりの一年生の後ろに立っている同級生へ悲しげな声をかけた。
「驚いてくれない」
「慣れたんだよ」
勘右衛門がざっくりと言い切る。
大きく枝分かれした立派な角の下で小さい耳がひくひくと動き、それではこれは仕掛け付きの被りものかと納得した彦四郎は、落ち葉が積もる地面へちらっと目を落とした。学級委員長委員会に申し付けられた正門周りの掃き掃除はまだまだ序盤だ。
「この変装は初めてなのに」
「変装っていうか仮装だよね。そうじゃなくて、三郎の悪ふざけにもいい加減で慣れたって話」
「つまんないなぁ。せっかく珍しいものを作ってきたのに」
「春日の鹿となんか違うな。これって鹿なの?」
「ううん。とぅなっかい」
「なんだそれ」
雷蔵が眺めていた南蛮の古い絵草紙に載っていた、海の向こうの大陸のずっとずっとずううっと北の方にいる鹿の仲間なんだってさと、幅広の鼻筋を挟んで顔の両脇に付いているつぶらな目が瞬きする。
人間の目は正面向きだから、覗き穴があるとしたらあの鼻筋の毛並みの下だろうと庄左ヱ門は見当をつけた。尾浜先輩と会話はしているけれど鹿頭の口は動かないから、声を外へ通す場所もどこかにあるんだろうな。
掃除の最中に箒を持ったまま三郎がふっと姿を消し、入れ替わりに植え込みの向こうから鹿面人が何食わぬ顔で現れた時、庄左ヱ門と彦四郎は見事に無反応だった。
と言っても、まったく驚いていない訳ではない。
勘右衛門の言う通り、だって鉢屋先輩だもんなぁ、という感想が先に来るというのが理由のひとつ。驚いてみせれば三郎が喜ぶのは分かっているけれど、喜ぶと変装に歯止めが効かなくなるのがちょっぴり面倒臭い、というのがもうひとつの理由だ。
掃除の続きに戻っていいのかな、もう少し付き合わないとダメかなとそわそわする一年生をよそに、身体とは不釣り合いに大きい鹿の頭がゆらゆらと揺れる。
「これからは変装にからくりを仕込むくらいしないと受けないのか……この目から涙が出たら驚く?」
「何者になりたいの、お前は」
頭はそのままでいいから掃除をしなさいよと、鹿頭の三郎が律儀に手に持ったままの箒を自分の箒の柄で指して勘右衛門が促す。
その柄の先を何かが素早く横切った。ばしゃっと濡れたものが叩きつけられる音がして、飛んで来たものを避けようとして避けそこねた鹿頭が仰け反る。
「ありゃま。三郎、無事?」
「あんまり心配されてる気がしない」
視界が悪いんだこれ、と言い訳しながら意気消沈した鹿頭がのろのろ元の姿勢に戻ると、その顔を見た三人がてんでに悲鳴を上げた。
「え? 何?」
「先輩、鼻血が出てます!」
「ええ?」
本当の鼻よりもだいぶ前にある分厚い鼻面を撫でて、三郎はぎょっとする。
手のひらが真赤に染まっている。が、勿論、三郎本体はまったくの無傷だ。赤い塗料を含んだ何かがそこにぶつかったせいで、まるで鼻血を噴いたようになってしまったらしい。
しかし今、そのおかげで庄左ヱ門と彦四郎が声を上げるほどに驚いた。驚いてくれた。
「どこから刷毛なんかすっ飛んで来たんだ?」
べったり赤にまみれた刷毛を指先で拾い上げた勘右衛門が不思議がる横で、赤鼻の鹿頭がしみじみと呟く。
「人間万事塞翁が馬」
「馬? 鹿だろ」
「とぅなっかい」
冬枯れの欅の下で、三人の図書委員が書物の虫干しをしている。
年末の大掃除をしていたら蔵の奥から出て来たと言って、学園長の知人がひと抱えある長持いっぱい寄贈してくれたものが、今朝早く馬借特急便で届いたのだ。親切なことに、「同じ蔵の中に虫の湧いたつづらがあったから早めに長持から出してね」との注意付きだった。
とは言うものの、日差しは陰りがちで、虫干しに向いた天候ではない。
留三郎と文次郎が争う声は風に乗って今も途切れずに聞こえて来る。
次第に雲の面積が広がる空を気にする久作に「あれが聞こえているうちは降り出さない」と言ったのは、ひょっとすると冗談だったのかもしれないが、淡々と作業を続ける長次の横顔からその真意は窺えない。
空気がからからに乾いているのはいいんだけど――と、雷蔵は屈めていた腰を伸ばし、ついでに背伸びをして頭上の梢を仰いだ。
枝の間にもっさりした緑色のかたまりが危なっかしく揺れている。
ふと顔を上げ、雷蔵が見ているものに目を留めた長次が、重たく口を開いた。
「……桑寄生」
「ええ。あんな所にあったんですね」
枝にぶら下がる丸い緑のぼんぼりは、漢方名「桑寄生」ことヤドリギだ。花樹の色彩に乏しい冬の風景の中で、宿主の葉がすっかり落ちて初めて見せたその姿はひときわくっきりと目に映える。
「……この本によると、南蛮では」
手にしていた本を軽く掲げて、珍しく長次が言葉を続ける。それに気付いて手を止めた久作も梢のヤドリギを見上げ、拝聴の態度でそのぼそぼそ声に耳を傾ける。
「ちょうど今頃、冬の祀りで、部屋の戸口や天井にあれを飾る」
「へえ。お正月の松飾りみたいなものですか」
ヤドリギと同じく常緑の松は冬の寒さにも負けない生命力の象徴でもある。口を挟んだ久作に小さく頷きかけ、長次はヤドリギを仰いでしばしばと瞬きした。
その目を木の下に並んでかしこまる雷蔵と久作に向け、本がない方の手をすっと上げて、自分の口元を指先で軽く叩く。
「そして、その下で出会った者同士で、口付けを交わす慣わしがある」
……のだそうだ、と低く語尾が沈み込んで、話はそれで終わったらしい。その習慣に対する感想も補足もなく長次はそのまま作業に戻る。
古今の戦記や戦史、みっしり文字が詰まった漢文、説話集、誰かの日記帳や異国の風物を紹介した絵草紙などなど、分野に脈絡がない書物の数々は、どれもカビくさいということだけは一貫していた。丁の隙間に挟まった埃を羽箒で払い、破れや綴じ糸のほつれに注意しながら半ば辺りから大きく開いて、急ごしらえの平台の上に丁寧に並べていく。
その繰り返しにしばらく集中してから、昨晩取り込み忘れた真冬の早朝の洗濯物のようになっている後輩たちに気付いて、長次はほんの僅か眉を寄せた。
訝しげな視線を受けてかくかくと顎を動かした雷蔵と久作の声がもつれ、調子外れに裏返りながら絡まる。
『いせうんひぱといがのちくがちえかばらなそんんてなここととなばいがはでなるしななんのてに』
「例えばタカ丸さんとか」
「もしかして鉢屋先輩の変装ですか」
「……二十二文字。二十一文字」
ひときわ強く吹いた風に煽られた樹上のヤドリギが、指を折って呟く長次の前にへろへろと転げ落ちた。
補充用落とし紙を抱えた伊作と左近は、回り道の林の中を小走りに移動している。
「あ、ここも通れないや」
前方に見えてきた立札を読んだ伊作が眉を下げた。そこには見慣れた級友の殴り書きによる「警告 此ノ先普請中ニ附通行不可 用具委員会」の貼り紙がある。
行く先々でぶち当たる通行止めの立札のおかげで、迂回路をまた迂回してさらに回り込んで後戻りして、一向に目的地へ辿りつけずにいる。これはひとえに不運な保健委員だから――というばかりでもない。
「もう! どうしてこんなにあっちこっち工事中なんだろう!」
「時期が時期だからねえ」
伊作とは逆に眉を釣り上げた左近にそう言って笑いかけ、今にも湯気を吹きそうな頭をぽんぽんと撫でる。
長期計画で同時進行していた複数の現場が一気にまとめて終盤に入るから、傍目には年末になると急に普請直しが増えたように見えるのだというのが、この時期多忙を極める留三郎の述懐だ。それに加えて飛び込みの修繕修補依頼はひっきりなしだから、猫の手も借りたいという冗談交じりの愚痴も真に迫って耳に響く。
どうしても切羽詰まったら手伝うよと申し出たら「その時は猫の手を借りる」と真顔で返されたのもたぶん冗談だ。たぶん。
「伊作先輩、どうしましょう。ここ、突破はできないですよね」
「少し戻ってあっちを回ろう――えーと、現在地はどこだっけ」
きょろきょろしながら方向転換して一歩踏み出す。
その先の地面が消失した。
うわーあ、という自分の声は、落とし紙の束と左近と一緒にあとから降って来た。落下の勢いがついた左近の体重を腹で受け止めた伊作が思わず呻くのと同時に、頭上にひょいと影が差す。
「おやまあ。だいじょーぶですかあ」
踏鋤を担いだ喜八郎が落とし穴の底を覗いて目をぱちくりさせている。
「……これ、綾部が掘った穴だよね? 駄目だよ、普請中の場所を荒らしちゃ」
「ええ。てめぇで直せって食満先輩にすごーく怒られて、しょうがないから埋めに来たんです」
一歩遅かったですねえゴメンナサイと首を傾ける喜八郎はそれなりに恐縮している様子ではあるので、目を回している左近の頬を軽く小突きながら、伊作は苦笑いした。
「君の趣味に時季は関係ないな」
「年末年始も通常営業です」
懐から取り出した丈夫な縄を穴の底へ下ろしながら、喜八郎は当然の顔でそう答えた。
「竹谷先輩、こっちです、こっち」
厩(うまや)へ向かって走って来る八左ヱ門を見つけた孫兵が、珍しく慌てた様子で手を振る。
その周囲に寄り集まった四人の一年生たちはひどく怯えている。それだけでなく、厩の中に繋がれた馬たちまで、しきりに足踏みしたり低く嘶(いなな)いたりと落ち着かない。
「空いてる馬房の中に何かがいるって聞いたけど」
合流した八左ヱ門が後輩たちを見回して尋ねると、全員がこくこくと頷いた。
「厩をうろついてる猫じゃないんだよな?」
こくこく。
「犬でもない」
こくこく。
「蛇やトカゲでもない、と」
一年生の注目を集めた孫兵がしっかりと頷く。そして、馬一頭ごとに仕切られた厩の一番右、今は空き家の馬房を指差して声をひそめた。
「僕と一平で敷き藁の交換に来て、あそこに置いてある三枚鍬を取ろうと近くに寄ったら、奥の飼い葉桶の所に人影が見えたんです」
馬や厩の手入れに必要な道具を収納したり、あとは堆肥にするばかりの藁や馬が食べ残した秣(まぐさ)を一時保管で積み上げてあるその一画はごちゃごちゃして、外から中の様子はよく見えない。物置代わりのそんな所に人の姿があるのも変だ。
そこにいるのは誰、と誰何した声に答えたのは、
「赤ん坊の泣き声……ねえ」
こりゃまたずいぶんと出来の悪い怪談だな、と口には出さず八左ヱ門は眉を寄せる。
おぎゃあおぎゃあと一本調子な声を聞いた一平は震え上がり、お化けが出たぁ! と泡を食って虎若たちを呼び集めたらしい。孫兵は見たところそこまでびくついてはいないものの、気味が悪いとは思っているようで、問題の馬房を直視しようとはしない。
下級生長屋の屋根に曲者が出た、という話は既に広まっている。
そして今、馬房の奥には正体不明の「赤ん坊」がいる。
このふたつを結び付けるのは簡単だ。
「お」
「ひええっ」
生物委員たちの話し声が聞こえたのか、息をひそめるように黙っていた「赤ん坊」が急に泣き始めた。不意打ちに八左ヱ門は思わず身構え、その腰回りに一年生が取りすがる。
不気味に響くわざとらしい泣き声にしばらく耳を澄ませるうち、八左ヱ門は気付いた。
「大人だな。男の声だ」
「もしかして、七松先輩が追っているという曲者では」
孫兵も思い当たり、そしてたちまち眉を逆立てる。生き物を盾にして立て篭もるとはなんて卑怯者だ!
「……だとすると、奴は七松先輩を振り切ったのか? そんな芸当ができる曲者って言ったら、」
「石を投げましょう」
ぶつぶつ言いながら首をひねる八左ヱ門に孫兵が敢然と進言する。我に返ってみれば、孫兵だけでなく虎若も三治郎も孫次郎も、一平までも、両手いっぱいに小石を拾い集めて既に臨戦態勢だ。
八左ヱ門は慌てた。
「いや待て、無闇に攻撃しちゃいけない。曲者と決まった訳じゃないんだからもうちょい慎重に」
「投擲用意。構え」
泣く子も黙る佐武鉄砲隊の若太夫が、良く通る大声で堂に入った号令を発する。
「わああ、待てってば!」
「放てえ!」
さらに慌てる八左ヱ門を尻目に、怪しい馬房目掛けて一斉に石つぶてが殺到した。大半は手前に堆積する藁や秣に衝突したが、そこをくぐり抜けたいくつかは、奥に潜む何者かにびしびしと命中する。
泣き真似の「泣き声」が本物の悲鳴に変わった。藁の山を突き崩しつつ、馬房の外へ向かってもがき出ようとする姿が見える。
「来る」
緊張した声で孫次郎が囁く。
と、馬房の柵を這々の体で乗り越えた丸っこい影がごろんと地面に転げ落ちた。固唾をのむ生物委員たちの前までそのままころころと転がって来ると、藁まみれの全身をぶるぶる震わせて、普通の人の声で怒鳴る。
「お前らなあ! とりあえず石を投げるというのはやめろっていつも言っているだろう!」
「どちらのミノムシお化けさんですか?」
「誰がお化けだ、誰が」
私は天下の剣豪・花房牧之介だ! と、髪や着物にまとわりついた藁屑を払い落としながら、自称剣豪は鼻息荒く名乗りを上げた。
「天カスの健康がどうして厩にいたのさ」
「あんまり寒いから、蓑か薦(こも)を拝借しようと思ったのだ」
ぺらりとした着物の襟元を引っ張ってみせる。よく見るとそれは生地の薄い夏向きの小袖で、所々に織糸が透けているのがなんとも貧乏臭い。
「伊賀崎先輩に見つかりそうになったからって、なんで赤ちゃんの真似なんてしたの。かえって不自然じゃないか」
「……ここしばらく犬の散歩や子守のバイトで食い繋いでいたから、咄嗟に出たのがそれだったんだよ。とにかく今日は、新年に向けての景気付けに我が終生のライバルと一手仕合おうと思ってな。案内を頼むぞ、少年たちよ」
ふんぞり返って取り次ぎを請う牧之介に、一年生たちは顔を見合わせる。
「丹念にすべて除けい黄ズッキーニ?」
「馬鹿修正の来春と言ってしまおうと重くて?」
「来年の春と言わずにいま治してよ」
「治らないよ」
「俺に対する優しさはないのか、お前ら!」
「あると思うほうが」
「厚かましい」
言いたい放題の一年生たちに牧之介が突っかかってぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるのを横目に、八左ヱ門の袖を引いて孫兵がこそりと囁く。
「……アレが七松先輩を撒くなんて不可能です」
「だよなぁ」
曲者は別にいる。それはそれとしてこいつは入門票を書いたんだろうかと疑問に思った八左ヱ門は、ふと上空の一点に目を留めた。
眩しく輝く閃光弾が長く尾を引いてゆっくりゆっくり落ちて来る。
その光球の下を、何かの影が素早く横切った――ような気がした。
ここの事務員はあの類稀な嗅覚を他の仕事に活かすべきだ。
持てる限りの遁走術を駆使した挙句にようやく教員長屋の天井裏へ辿り着いた諸泉は、そこに潜んで静かに呼吸を整えながら、つくづくと考えた。
入門票に署名して正門をくぐる以外は、塀を飛び越そうが地中から横穴を掘ろうが水路の底を伝って来ようがお構いなし。必ずや侵入を嗅ぎ付けられ、逃げても逃げても猛追されて、いつも最後には強引に入門票を書かされる。今回は偶然にも別口の侵入者がいて、うまい具合にそいつが囮になったものの――
てことは、俺はあのへっぽこ事務員にさえまだ勝っていないのか。
諸泉は慌てて両手で(音を立てずに)ぱんと自分の頬を叩き、気合を入れ直した。
タソガレドキ城は年末大掃除の真っ最中だ。大勢の人間があちこち忙しく動き回り、いま目の前にいないあいつはどこで何をしているのかなどと誰も気に留めなくなる頃合いを見計らって、土井に今年最後の勝負を挑むべく忍術学園を訪れた。
悔しいことに現時点では負け越し中だ。――という言い方はまだ見栄を張っている。実際のところ連戦連敗、時によってはいい勝負すらさせて貰えない体たらくだと認めざるを得ない。
だからこそ、今日こそ一矢報いて晴れ晴れしく新しい年を迎えたい。
そして黒板消しとかチョーク入れを得物にするのは無しにして欲しい。同じ負けるにしても、せめて忍器に負けるほうがまだ矜持が保てる。
いや違うだろ。今日は勝ちに来たんだ。負けるなんてゆめゆめ考えてはいけない。
「……でもアレ、何やってんだろ」
天井板の継ぎ目から下の部屋に目を凝らし、文机に向かっている土井の後ろ姿を俯瞰に見ながら、諸泉は首をひねった。
眼下の土井はえらく呻吟している。
机に肘をついた左手に頭を預け、時折その手がぐしゃぐしゃ髪を掻き回し、右手に持った筆は文字を書かずにその場でとんとんと小刻みに上下に動くばかりだ。ふと漏れる溜息には、思わず背中に手を添えたくなるような細い呻き声が混ざってさえいる。
何だか分からないが、ひどく悩むか困るかしているらしい。
そんなことはこちらには関係ない。
その場に立ち上がった諸泉は天井板を思いっ切り蹴り外し、勢いをつけて部屋の中へ飛び降りた。
「土井半助! 勝負だっ!」
「……。ああ?」
うなだれる背中目掛けて気勢をぶつけると、一拍おいて恐ろしく低い声が返って来た。あれ部屋を間違えたかな、と諸泉は一瞬思ったが、ゆらりとこちらを向いたのは確かに土井の顔である。
が、怖い。
苦笑か呆れかうんざり顔か、いつも向けられるのは基調には温顔があるそんな表情なのに、今の顔付きはまるで違う。皿のような目は爛々と口は耳まで裂け――なんて変貌をしている訳でもないのに、亡者を苛む獄卒の牛頭馬頭すらも泣いて逃げ出そうほどだ。
「……し、勝負、を」
「悪いけど今は遊んでいる暇がない。帰りなさい」
心ならずも怯んでおずおず言いかけた途端、ぴしゃりと遮られた。
「あ、遊びじゃないぞ! 真剣勝負――」
「あのねえ」
足を踏ん張って力む諸泉に、まだ筆を持っている右手は机の上に置いたまま、土井は体ごと振り返った。
「わたしは忙しい。一年は組の成績表をつけなくちゃいけないんだ」
「あの小うるさいガキど――、じゃなくてあの、良い子たちの?」
「そう。良い子なんだ」
異様な音がした。はっと土井の手元を見れば、筆の軸が砕け散っている。
「良い子なんだよ。しかしテストの結果が目の検査では成績のつけようがない。つけようがないが、つけなくちゃいけない。砂浜の砂の中から砂金をひと粒探し出す苦労が君には分かるか? 砂金は確実にある。でも、血眼になって探しても探しても探しても見つからない」
砂浜は広大で砂金は極小、それでも見つけ出さなきゃならんのだ。
だから帰れ。今すぐ帰れ。暇も余裕も本当にないんだ。
「だ、だ、だけど、」
「帰りなさい」
反論を許さぬ喝破がびんと鼓膜を震わせ、諸泉は完全に腰が引けた。
お邪魔しました失礼します帰ります、ともごもご口走り、さっき降りて来た天井の穴に鉤縄を掛けてよじ登る。……そうだ、早く城に戻って掃除の続きをやらなくちゃ。こっそり抜け出したのが組頭にばれたら冬の賞与が取り上げになってしまう。年末調整でちょっとだけ返って来た給金は大掃除の前にびた銭で貰ったけど――
「あれ?」
鉤縄をねじ込みついでに懐を探って、愕然とした。
「ない! なんで!? どこに!?」
「喧しい!」
天井裏へピンポイントで飛んで来た三角定規がいい音を立てて諸泉の額に当たった。
昼の明るさの中でも問題なく視認できる発光具合は申し分ない。ただ、打ち上げから破裂までの間隔が想定よりもやや早かった。気候や天候の条件を考慮に入れても、推進剤の火薬の調合には再考の余地がありそうだ。
簡易式打ち上げ装置を撤収しながら、仙蔵はぶつぶつと実験の結果を反復している。
空が暗い悪天候時や夜間の合図に使う閃光弾を照明弾として利用できないかと、今朝起き抜けにふっと思い付いた。
思い付いたからには試してみないと気が済まない。
あと数日で今年が終わるというこの時期、各委員会の委員長を務める同級生たちは何やかやと大忙しだ。作法委員会とて年の瀬と新年の行事の為の準備をしなければならない、のは、重々承知しているから、喜八郎に「少しの間指示を頼む」と言っては来たが――
「……早く戻らないといかんな」
まだうっすらと残光が見える空を仰いで仙蔵は独りごちる。
その時、視界の端におかしなものが映った。
なだらかな丘陵になった左手の林の中に一本、飛び抜けて背の高い杉の木がある。トビかカラスが一休みするのにちょうど頃合いなそのてっぺんに、有り得ないことに、人の形の影が見える。
まさか烏天狗ではあるまいに――と手庇をしてじっとそれに目を凝らした仙蔵は、その正体に気付くと、今度はその手を口の横に添えて大声で呼び掛けた。
「おぉい。こ、へ、い、たぁ」
「おーう」
ちょいと下を向いた小平太が地面の上の仙蔵を見とめて手を振った。校舎の最上階よりも更に高い不安定な場所だというのに、命綱もなしに器用にちょこんと枝に止まっている。
「なあにを、している」
「せんぞーう。あのさーあ」
樹上と地上で互いに張り上げる声が空中で交錯する。一瞬譲り合ったあと、小平太のほうが言葉を続けた。
「人は、空を、飛ぶかあ?」
「……へっ?」
仙蔵の口から、仙蔵らしからぬひどく間の抜けた声が漏れた。返答がないので聞こえていないと思ったのか、小平太がもう一度でっかい声で叫ぶ。
「人はぁ、空をぉ、飛ぶぅ、ものかぁ?」
聞き間違いではなかった。
「飛ばな……いや、まず、降りて来い」
こんな話を大声でやり取りしていたら、たまたま耳にした誰かに正気を疑われかねない。仙蔵が大きく腕を動かして「下の方」を示すと、小平太はするすると幹を伝って杉の木を下り、小走りに駆け寄って来た。髪の毛にあちこち小枝や杉の葉をくっつけたまま、しきりに空を見上げては首をひねっている。
「人は空を飛ばない」
顔を見るなり仙蔵が断言すると、小平太は不思議そうにかくんと頭を傾けた。
「やっぱりそうだよなぁ」
「何をしていたんだ、あんな所で。お前ひとりか。委員会はいいのか?」
「今日は活動日じゃないんだ。皆を誘ってバレーをやろうと思ったんだけど、誰に声を掛けても忙しそうでな。仕方がないからリフティングをしていた」
「バレーボールでするんじゃない、バレーボールで」
しかし言われてみれば、体育委員会は年末だからと言って特にするべきことがある訳でもない。学園長が突然の思い付きで年越し大運動会を開催するとでも言い出したら話は別だが――と不吉なことを考え、仙蔵は急いで首を振ってそれを振り払った。
「そうしたら下級生の長屋の屋根に見慣れない人物を見つけて、挙動が怪しかったので」
「……アタックをお見舞いしたんだな」
「うん。ちょっと逸れて屋根に当たってしまった」
今頃は留三郎がさぞかし怒り狂っていることだろう。ここ最近の用具委員会の獅子奮迅ぶりは仙蔵も知っているので、さすがに少し気の毒になる。
そうだ、それで思い出したが、今の試射で打ち上げ装置の砲身に少し歪みが出来てしまった。校舎に戻ったら修理を頼んでおこう。
「それで不審者が逃げ出したから、後を追って来たんだが――変なやつでさ」
道服のような神職の装束のような、どことはなしに威厳の漂うぞろっと長い衣をつけて、頭には立烏帽子に似たものをかぶり、長い杖を持っていた。
その風体だけでもおかしいのに、その人物は全速力で追いかける小平太から常に一定の距離を保ち、校庭や林の中を土埃ひとつ立てず滑るようにすり抜けてここまでやって来たのだという。
「くるくるの白髪で白い髭がもしゃもしゃしていたから、たぶん爺さんだと思う」
「その移動の仕方もお前に追い付かせないのも人間業じゃないな……それで? その爺さんが空を飛んで逃げたって?」
冗談半分に仙蔵が先読みしてみせると、小平太は再び「うん」と頷いた。
「……。え?」
「私が登っていた、あの木に」
もしゃもしゃ髭の怪しい爺さんは、よっこらしょと枝に手足を掛けるでもなく杉の木のてっぺんまで見る間に上り詰め、
「ほぅほぅほぅと笑って、何かをまたいだと思ったら、ふっと消えてしまった」
沢山の鈴が鳴るような音がしていた気がする――と真面目な顔で話す小平太の額に、仙蔵は思わず手を当てた。
熱はない。白目もきれいに澄んでいる。だがしかし、白日夢でも見たに違いない。委員会活動がなくて差し当たり忙しくもないのなら部屋に帰って休むべきだ。
何だよお、と小平太が口を尖らせる。
「信じてないのか?」
「信じろと言うほうが無茶だろう」
「どうせ嘘をつくなら、もっと無茶苦茶なことを言う!」
へえ、例えばどんな? と仙蔵がまぜ返そうとしたその時、林の奥から爆風が噴き上がった。
もとい。入門票を抱えた小松田が飛び出して来た。
唖然とする仙蔵と小平太をよそにその眼前を駆け抜け、立ち止まり、ぐるりと辺りを見回して、顔を歪める。
「ちくしょう、逃げられたぁ!」
らしくもない罵声を放ち地団駄を踏む。
「無断入門者ですか」
やや及び腰になって仙蔵が尋ねると、勢い良く振り返った小松田は「三人もいるんだよ!」と憤ろしげに唸り、入門票をぱしんと叩いた。そこにはよれよれの文字で「諸泉尊奈門」と「花房牧之介」の署名がある。
「二人は捕まえたんだ。あとひとりも照準に入ったと思ったのに、ここに向かう途中で気配がなくなっちゃった。おかしいんだよ。あっちこっちに現れたと思ったら、最後は煙みたいにぱっと消えちゃってさ」
「気配……」
一体何を感知して対象を捕捉しているんだこの人は、と仙蔵はひそかに戦慄する。
しかし小平太は目を輝かせた。
「その侵入者って、もしかして白髭の爺さんですか」
「僕の心象ではそう見えたな。七松くんは実物を見たの? そいつ、どこに行った?」
「杉の木のてっぺんから空中に消えました。こう、輿(こし)か何かに乗り込むような動きをして」
「ああ、やっぱりそうなのかぁー……」
「小松田さんから逃げ切るとは、大した爺さんですね」
「消えられちゃどうしようもないもの。もう! また来たらその時は絶対逃さないからな!」
荒唐無稽な会話を平気で成立させる小松田と小平太の間に挟まれて、くらくらし始めた頭を押さえながら、仙蔵はふと、以前耳にした話を思い出した。
南蛮のどこの国だったか、確か今くらいの時期に関する古い言い伝えだったような気がする。良い子には贈り物を、悪い子には木の枝を渡しに来る、ちょうど小平太が言ったようないでたちの聖人だか精霊が現れるとか……、いや、十三体の妖しのものが順繰りに山を降りて、菓子か炭かを置いて行くのだったか? それとも、聖人が悪い子に仕置きをする怪人を連れてやって来るのだっけ?
まさか、そんなものがここへ来ていたとでも言うのか?
駄目だ。色々と訳が分からなくて頭の中がごちゃごちゃして、まともに思い出せない。
押さえていた頭をとうとう抱えた仙蔵の耳に、どこか高い所で鈴の音がしゃらんと鳴るのが聞こえた。
それからもう少し時が過ぎて、すっかり日も沈んだ頃。
屋根の大穴はきれいに修繕され、図書室は「新入荷のお知らせ」を掲示板に張り出し、物置になっていた厩の一画はすっかり片付けられた。
平穏な放課後を噛み締めていた体育委員たちは委員長に臨時招集され、手を使わずに藪こぎを試みるという奇妙な自主鍛錬に付き合わされている。
会計委員がこもる一室からはパチパチと算盤玉を弾く音が響く。
遅くなって帰って来た戸部が珍しく機嫌良さそうにしていたのは、留守の間に生物委員に叩き出された牧之介と遭遇せずに済んだからだけではなく、好条件の貸家が見つかったかららしい。その話を聞いた土井はしくしく泣く胃を押さえながら「休みの間、金吾をお願いします」と頭を下げた。
忍術学園の騒がしい一日が終わる、その終幕を告げるように、夜空にはちらちらと白い雪が舞い始めている。
後日の余談――
びた銭の落とし物がなかったかと涙で滲んだ匿名の問い合わせ状が届いたものの、取り次いだ小松田が照会をすっかり忘れたため、小銭の入った巾着袋は今も拾得物入れの箱の底で眠り続けている。